もちろん、大学に進学しなくても、自分の才能を活かし各分野で成功している若者もいる。そして、一流大学の卒業ではないが優れた実力で認められて成功する人もいる。政府や教育界でも色々な改革を行い、最近では「成績」ではなく「適性」と「能力」に合わせたコース、専攻を選択するように誘導して、ある程度の成果を得ている。 にもかかわらず毎年このような騒動が起こるということは、まだそれらはレアケースであって大学という看板が韓国社会で成功するための最も重要な「道具」であるという現実を韓国人はよく分かっているからである。
「甘やかしすぎ」との批判も 受験生なら何でも許す社会的雰囲気に疑問
修学能力試験日の朝にパトカーや白バイを動員して、受験生を試験場まで運ぶことに対する批判論もある。「時間に合わせて試験場に行くのも試験の一部である」、「責任というのを学ぶべき学生を甘やかしてる」といった意見である。いつまでも甘やかしていたら、まだ若い学生たちは政府や社会が自分たちの面倒をみることを当たり前だと思うようになり、大人になっても全てを政府や社会に頼る人間、あるいは、何でも政府のせいにする大人になりかねないと懸念する声だ。
このような自己責任論が少なくないにもかかわらず、受験生の「甘え」を容認しているのは、やはりまだ韓国社会で「大学」という看板がまだ大きな力を発揮していることを物語っている。
ところで、TVニュースを見ていると、警察の白バイの後部座席の学生がヘルメットを着用しないまま走行している姿も見られる。交通法を厳しく遵守しなければならない警察が「受験生護送」という「目的」のため法律や安全という「ルール」を無視すること、そして社会的にそれを容認することが正しいと思っているのだろうか。見る度になさけなく思う。「目的」(利益)のために「ルール」(安全)を無視して大きな犠牲を払った「セウォル号沈没事件」の悲劇から韓国が学んだのは一体何だったのか。