鎌倉に生まれ育った私にとって、松籟〔しょうらい〕は子どもの頃から、耳になじんでいるものです。
海を指して歩いていくと、浜に出る前から聞こえてきます。潮騒とは別の音です。空の高いところを、水が流れ続けているような。そこだけ別の、風の道筋があるような。
旅先でも、松が目にとまります。入り組んだ海岸線に沿って、列車で揺られていくときなどに。とりわけひかれるのは、崖の上に1本だけ立つ古木です。
枝々は一方向になびくように生えています。絶え間なく風が吹きつけ、岩場では打ち砕ける波が轟いていることでしょう。にもかかわらず、松の周囲だけ、不思議な静謐さに包まれて見えるのです。
一つ松幾代か経〔へ〕ぬる吹く風の
声〔おと〕の清〔す〕めるは年深みかも
(巻6-1042)
一本松はどれほどの時代を経てきたのか。梢〔こずえ〕を吹く風の音が 美しく通るのは、歳月を重ねたからだろう。
万葉集のこの歌を知ったのは、鎌倉を離れて久しい、40代になってからですが、「声の清める」は、ああ、ほんとうにそういう音だと素直に胸に入ってきました。同時にそれを「年深みかも」と関連づけているのが、新鮮でした。
今の世では、女性はことに、若くあることが尊ばれます。対してこの歌は、響きの美しさを、加齢に帰している。老いについての特徴的なとらえ方が、万葉集にあるのかどうかは、わかりません。が、少なくともこの1首は、年をとることへの賛歌と感じられます。
古木、とりわけ、1本だけで立つ木とあれば、風避けになるもの、雨や過酷な陽ざしを遮るものは何もない。幹の肌は傷んでひび割れ、剥落したところもあるでしょう。
けれども梢の音色には、いささかの濁りも混じっていない。そのような澄んだ心持ちに、私もなれるでしょうか。
併せて思い出される歌があります。