今から千年以上前、日本は中国(唐)へ何度も使いを送り、中国の進んだ文明や文化を学ぼうとした。これが遣唐使であることは言うまでもないが、阿倍仲麻呂の名は知っていても、のべ数千人にも及ぶ遣唐使たちが、どのような日々を送ったかを具体的に語れる人は多くはないだろう。
たとえば、皇帝の玄宗(げんそう)から道士(道教の僧侶)を日本へ連れて行くよう命じられた遣唐使がいた。しかし、当時の日本は道教を入れないことを国の決まりとしていた。そのとき遣唐使はどのような行動をとったか。みなさんならばどうするだろうか。彼らは道士をお連れする前にここで道教を学ばせてほしいと嘆願し、数人がそのために中国に残った。みずからを防波堤として道教を日本に入れなかった。遣唐使とはそういう人たちである。
皇帝から賜ったものをすべて書物に替えて帰った遣唐使がいた。よい国を作るために金銀財宝は役に立たない。本当に必要なのは知識・情報・智恵。それらは書物の中にある。これが中国で評判になった。唐に使いを出していた国は50カ国に及んだが、金銀財宝より書物を選んだのは日本の遣唐使だけだった。
唐から帰る途中に火災が発生した遣唐使船があった。百数十人はパニックになって右往左往するばかり。船の舵(かじ)を取っていたのは川部酒麻呂(かわべのさかまろ)。火は酒麻呂のもとにも至り、酒麻呂の手が焼け始めた。しかし、酒麻呂は動じない。ひとりの目にその姿が映った。彼は急に気持ちが静まり、みんなに声をかけ、必死に消火活動をして、火事は消えた。帰国した酒麻呂はこの功労により昇進する。
遣唐使が初めて派遣されたのは630年。最後の遣唐使が派遣されたのは838年。この間、ほぼ200年。奈良時代には遣唐使は四艘の船で出発した。
ボストン美術館蔵 平安時代(12世紀)
Photograph©2010 Museum of Fine Arts, Boston
735年に中国から日本へ向かった四艘の遣唐使船のうち、第一船こそ無事に帰国したものの、第二船は悪風に翻弄されて唐へ舞い戻り、翌年に再出発、今度は無事に日本に着くことができた。のちに大仏開眼の導師をつとめるインド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)はこの船に乗っていた。第三船は崑崙(こんろん/ベトナム付近)へ流され、現地人の襲撃と熱病のために壊滅的な被害を受けた。115人のうち助かったのは平群広成(へぐりのひろなり)ら4人だけだった。玄宗の信任が厚かった阿倍仲麻呂の上奏により、彼らは渤海(ぼっかい/中国東北部から北朝鮮付近にあった国)を経由し、長い苦難の末に帰国することができた。第四船は行方知れずとなった。