2024年11月22日(金)

古都を感じる 奈良コレクション

2010年5月7日

 阿倍仲麻呂の従者に羽栗吉麻呂(はくりのよしまろ)という人がいた。養老元年(717)に入唐した仲麻呂はついに日本に戻れなかったが、吉麻呂は18年ぶりに日本に帰ることになった。すでに吉麻呂は唐の女性と結婚し、ふたりの男の子がいた。名は、翔(かける)と翼(つばさ)。吉麻呂の望郷の思いがひしひしと伝わってくる。翔と翼はそのあと外交官となり、遣唐使となって中国へ渡る。こんなふうに1200年以上も前に、日本と中国の架け橋になった人たちがいたのだ。

遣唐使の通ったルート
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 鑑真和上(がんじんわじょう)が6度目の挑戦でついに日本に来ることができたのは、遣唐使船に乗ったからである。このとき日本から遣唐使が来なければ、鑑真和上が日本に来ることはなかっただろう。唐のどこかの地で、志を果たすことなくこの世を去り、その結果、日本人には知られることなく、中国人からは忘れられて、歴史の舞台から消えていったに違いない。

 暴風雨のなか、鑑真和上を乗せて薩摩(鹿児島)に着いたのは第二船だった。遣唐大使の藤原清河(ふじわらのきよかわ)と阿倍仲麻呂らが乗り込んでいた第一船は、沖縄まで来ておりながら、そこからベトナムへ流されてしまう。

 清河は光明皇后の甥にあたる。唐へ向かう清河の航海の無事を祈り、光明皇后は春日野で歌を詠んだ。

大船に 真楫(まかじ)繁(しじ)貫(ぬ)き この吾子(あこ)を
             韓国(からくに)へ遣(や)る 斎(いは)へ神たち

 清河もそれに応えて詠んだ。

春日野に 斎(いつ)く三諸(みむろ)の梅の花
 
              栄えてあり待て 還り来るまで

 しかし、清河は日本に戻れなかった。漂着したベトナムで現地人の襲撃を受け、第一船の乗組員180余人のうち大半が殺された。助かったのは清河・仲麻呂ら10数名だけだったという。報告を受けた玄宗の指令によって救出され、ようやくのことで長安に戻ることができたが、清河も仲麻呂も日本へ帰ることはできなかった。清河は中国の女性と結婚し、女の子が生まれた。名は喜娘(きじょう)といった。

 天平宝字3年(759)、清河を連れ帰るために遣唐使が派遣された。この異例の遣唐使(迎〈入唐大使〉使)は、日本海を通って渤海に至り、渤海を経由して唐へ向かうという異例のコースをとった。清河が生きて長安に戻ったという情報は、渤海からの使いの楊承慶によってもたらされた。高元度をリーダーとする総勢99人は、帰国する楊承慶とともに渤海に渡り、さらに楊承慶の案内で長安へ向かった。この時期の唐は安禄山の乱で大混乱に陥っており、少人数のほうがよいという判断から、長安へ向かったのは11人だけで、このなかに羽栗翔がいた。


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