1軍で活躍し始めた時も、球団から新幹線グリーン車のチケットを支給されるも、席が空いていなかったという理由で、車両の間のデッキに立ったまま移動したこともある。井川には、「特別な」何かはない。様々な意思決定は、井川の中だけに流れる時間、価値観によって行われていることを証明しているかのようである。
2000年オフ。当時、阪神の左腕の柱であった湯舟敏郎がトレードで移籍。これにより、井川は左投手の先発第一候補となった。
「なんで左投手の補強をしないんだろうって思ってた。『あれ、これは俺がやんなきゃマズイな』って気づいて、スイッチが入った」
独特のスイッチの入り方ではあるが、この翌年から井川の成績は急上昇する。01年は防御率2・67で2位となり、02年は14勝を挙げ、206奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得。03年には20勝を挙げてチームを18年ぶりのリーグ優勝に導いた。押しも押されもせぬ阪神のエース。そんな周囲の過熱ぶりとは裏腹に、活躍するほど井川の心は冷静になっていた。
「メンバーも特に変わらない中で、どこにどのくらいの力で投げればどうなるか、大体分かってきた」
そのレベルでプレーする人間にしか分からぬ世界は、「わざと打たれそうなところに投げてみたくなる」という〝高貴な遊戯〟とも言える領域に達した。井川の目がアメリカに向くのは必然だった。
「どんなレベルで勝負しているんだろう。彼らはきっと、日々激しいトレーニングをしているに違いない」
井川のトレーニングは激しさを増した。エースという立場ながら、シーズン中に休むことはなかった。06年12月、ニューヨーク・ヤンキースと契約し、海を渡った。
初のメジャーキャンプ。井川は不自由さを感じていた。
「『巨額の契約をしているんだから、こっちの言うことを聞いてくれ』と、投げ込みを禁止された。隠れて壁に向かって投げていたら、見つかってやめさせられる。調整が難しかった」
メジャーで結果の出ない井川は、マイナーに降格する。2年目の08年にはマイナーで14勝を挙げるなど、「他球団に出れば活躍できる」と評価され、トレードの話は絶えなかったが、高額の契約がネックとなり移籍が実現することはなかった。当時、キャッシュマンGMからは、「中継ぎならメジャーの道もある」、「サイドスローにするなら、チャンスは与える」と直接言われたが、井川は先発にこだわった。
「自分の良さは先発でこそ生きる。今から横投げにしても、元々横投げの人には敵わない。自分に与えられたフィールドで、結果を出すだけ」
09年、井川はヤンキース傘下のAAAのチームで、当時の歴代球団最多勝記録を塗り替える27勝目を記録した。それでも、メジャーから声がかかることはなかった。
12年。5年の契約が満了し、井川は日本球界に復帰した。
「アメリカでの5年は無駄ではなかった。与えられた場所で常に結果を残すことを考え、様々な勉強もできた」