初瀬:小さい頃から英語の絵本を読んでいたほどだから、元々興味があったということなんでしょうね。だから、中学で英語に出合ったときに、「これだ!」となって、その後、好きが高じて今の田畑さんの基礎ができていくわけですね。
田畑:その当時、洋楽が流行っていたので外国人歌手の歌を片っ端から覚えていったのです。それにNHKのラジオ英語講座もよく聞いていました。とにかく好きで中学からは英語漬けの毎日になりました。
自分が変わったという意味では、友達と教室でピンクレディーの曲を歌ったり踊っていました。ビジュアル系のエンタメを盲学校の生徒がやるなんてかなり斬新なんですよ(笑)。
初瀬:それ凄いですね。踊っている人も見ている人も視覚障害ですからね。確かに斬新だ(笑)。
筑波大付属盲学校の卒業生を何人か存じ上げているのですが、社会的に活躍されている優秀な方たちを輩出しています。障害を持ちながらも子どもたちを伸ばす土壌があるのでしょうね。
田畑:学校側は大学受験を前提にしていますし、理療科の教員養成も考えているので、結果としてそういった人たちが出てくるのでしょう。私の両親も私が留学するまでは理療科の教員を目指して欲しいと考えていたようです。
初瀬:幼いころから国際的な仕事に興味を持っていた田畑さんは、留学という形でその一歩を踏み出したわけですが、視覚障害者でありながら、凄い勇気というか行動力だと思うんです。私にはとてもそんなことは考えられません。
田畑:高校2年生のときにアメリカのテキサス州立盲学校に1年間留学しました。
高校1年の頃から留学を考えていたのですが、英語科の先生が海外留学のパンフレットを持っていて、そこに盲学校と書いてあったんです。それなら私も行ける! と思ったのです。
視覚障害者の高校生で留学するのは、その当時としてはあまり聞いたことがありません。私の前に若干名いたかどうか。
初瀬:現在はかなり増えてきているようですから、田畑さんは先駆的な存在だと思います。
ところで、テキサス州の盲学校ってイメージが湧かないんですが、アメリカだから規模も大きいんでしょうか。
田畑:私は寄宿舎で生活をしていたのですが、敷地が広くてそれだけでも移動が大変だし、食べ物はお肉ばかりで量がまた凄いんです。留学して3カ月間で10㎏以上体重が増えました。そんなに食べなきゃいいだけなんですけどね(笑)。
アメリカの学校では自分で教科を選ぶので同級生が何名いるのかよくわかりませんでした。社交性があって、学力が高いような人たちは、午後からは一般校へも通っていましたから、余計に人数とか全体像が掴みづらいんです。
初瀬:留学して困ったことはありませんでしたか? 文化の違いに戸惑ったり、日本で学んでいた英語が通じなかったり、人数が多いから上手くコミュニケーションが取れなかったり……。
田畑:環境が大きく変わりましたから、戸惑うことは多かったです。言葉の面ではこちらの言うことは通じても、相手の英語がなまっていたり、崩れていたりするので聞き取りづらいんです。留学してすぐの頃は話を聞き取れなかったので、視覚障害に加えて知的障害も重複しているのかと思われていたみたいです。何をするにも周りの人に聞かなければならないし、コミュニケーションを取るのは難しかったですね。耳が慣れるまでに1~2カ月間はかかったと思います。
初瀬:元々英語力があったからこそ2カ月で慣れることができたのでしょうね。
留学中にこちらでは学べないことをいろいろ吸収されたと思うのですが、その中で今の自分に繋がっていることはありますか。
田畑:留学する以前から、人種差別はいけないことと理解していたのですが、実際に現地に行って様々な肌の色の友人と出合い、私が帰国するときに「もう会えないかもしれないね」と抱き合って、お互いに涙を流した経験をすると、頭の中の理解とは違って、実感を伴うものとして、絶対に人種差別はいけないという思いを強くしました。
初瀬:経験を通して、知識ではなく感覚としてそれを理解し信念となった。それが現在活動されている「難民を助ける会」に繋がっているんですね。納得しました。