わが家では、ライターである私の仕事柄、本だけは大量にあります。子供たちは、「大人は本を読むもの」と認識して育ったと思います。ピアノが趣味の夫は、暇さえあれば(中古で購入した)防音室にこもってピアノを弾いていますから、「大人は楽器を弾くもの」と認識していたかもしれません。そのためか今、子供たちは二人とも読書とピアノが大好きです。
また、我が家のレジャーもカラオケやショッピングよりも、博物館・美術館・図書館といった「館」のつく場所(コスパが良い)や、海や山などアウトドアだったためか、彼らのサークル・部活も、自転車部と山岳部です。
親自身の変革が大切
もう一つ、学力の高くない子供の世帯の傾向として、
「土曜日も学校で授業をしてほしい」
と考えている保護者が多いこともわかっています。総じて、受け身で、自分から状況を変えようとする姿勢に乏しいように感じられます。
大学の淘汰が始まるという「2018年問題」が取り沙汰されているように、大学受験は「高偏差値・高倍率の人気大学とそれ以外」の二極化の様相を呈しています。かつてのように、「四年制大学にさえ入ればなんとかなる」という時代ではありません。かと言って、どんなにすぐれた教師や塾に巡り合ったとしても、親の考え方・姿勢が大学に依存的である限り、子供もまた、自らの将来に自覚的になることは困難です。
塾の活用方法は子供の適性によって違う
どの子供に同じ教育を与えても、同じ結果が出るとは限りません。我が家の子供たちも、上の子は好奇心旺盛だけれどメンタル弱め、下の子はマイペースで自分の関心のあることだけを突き詰めるタイプです。二人とも中学で初めて塾に入りましたが、打たれ弱い上の子には個別指導の塾を週2~3日、他人を気にしない下の子には厳しめの塾を週1日だけ。
上の子は高校では塾に行かなかったので、代わりに美術の短期留学をさせましたが、希望通りの大学に入学でき、楽しく過ごしています。下の子がサッカー漬けの中学時代にもかかわらず、志望校に入学できたのは、厳しい塾の指導のおかげもあると思っています。
親が子供の適性を見極めて判断することで、その子の適性に合わせたピンポイント的に塾を活用できたのがよかったかもしれません。
真の評価が偏差値の数値になってはいけない
ますます進む少子高齢化、AIの出現によって消えていく職業、IT化と国際的な人材交流によって世界中どこでも働く可能性など、親世代の若い頃とは比較にならないドラスティックな変化が起きています。消えていく大学も少なくないでしょう。
未来におびえるあまり、例えば、学歴をお金で買うようなことができたとして、それにいつまで効力があるのでしょうか。
ましてや、親として子供の評価を数値で評価してはいけません。子供の真の評価はその子の個性であり、特性です。それを一番に理解しているのが親でなくてはなりません。
それよりも、家族と過ごす時間の中で、子供に何を伝えられるかを考えてみましょう。親の存在する最大の意味は、自分の思う通りに子供を育てることではなく、自分がいなくなった後も子供が幸せに生きていけるよう、子供と一緒に考えるところにあります。
模試でも定期試験でも、本番の受験であっても、我が家で常に言っていたことは、
「結果が良くても悪くても、一喜一憂するな。試験は、自分に足りないところを教えてくれるためにある。たまたま点が良かったり悪かったりしても、それはその時点だけのこと。結果は、これからの自分の努力目標を教えてくれるためのものだ」
それは、私たち自身の人生に対する考え方でもあります。
子供にとって、家族との時間は生きた授業そのもの。その中で、進学や専攻、ひいては職業にも気づきや目標が出来てくるものです。受験はその過程にある通過点にしかすぎないからです。
(企画・編集協力SAKU)
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