緑に囲まれた小高い丘をのぼれば、そこはくつろぎの美術館。
館内に並んだ小品の数々には、その大きさゆえに自宅で眺めているような気分へと誘われ、
やがてはコレクターの作品への思いを、自分のそれと重ね合わせて見ているのでした……。
美術館は伊豆の下田にある。下田といえば文明開化の黒船だ。そこまでいかなくても、川端康成、伊豆の踊子だ。温泉も湧いている。とにかく仕事とは違う歴史や休日の楽しみが、どことなく湧いてくるような地名である。
美術館のある辺りはさらに田園の空気が広がり、近くには農家の小ぢんまりとした段々畠が、のんびり陽を受けている。美術館に行く石段の脇には、古い石像や石碑が、草木とともに立ちつくしている。
美術館は見晴しのいい丘の上にあり、建物は高さを抑えた平屋で、入口前の広場の一角に金属製の現代彫刻が光っていた。鋭角が特徴のチャドウィックというのが、ちょっと意外だった。
館内には近代絵画を中心とした小品が、丁寧に並んでいた。西洋、日本、そして日本画とあり、いずれも粒選りの作品だ。その粒選りという感じには、共感するものがあった。ぼく自身はコレクターではないが、その気持はある。その気持に共感するもの、作品の良し悪しはもちろんのことだが、この絵、欲しい、という琴線にふれるものがあちこちに見つかる。この美術館は「欲しい」という気持から発展したんだということを、実感した。
西洋の印象派はモネ、ピサロ、シスレー、ルノワールとあり、やはりどれも絵の中に欲しい要素がある。珍しくマチスの風景画があったが、これも新鮮だ。マルケも好きだ。マチスよりもっと風景画になりきっているが、持っていたいという気持がわかる。ドランがあるのも頷ける。目立たないけど好きだ。
でもピカソの「科学と博愛」があるのにはハッとした。黒服の医師が病床の婦人の脈を取っている絵で、ピカソ16歳の油絵として有名だ。それがここ に……、と驚いたが、よく見直すとそれは小品で、習作だった。でもドローイングではなく油絵だから、習作の中でもかなり最終のものらしい。