52歳、ニューヨークへの外遊で抽象絵画に転じ、再出発をはたした猪熊弦一郎。
氏の名前が冠された、故郷の駅前にあるユニークな造形の美術館は、
現代美術を愛した芸術家からの、大きな箱に入った贈り物のようでした──。 丸亀の駅を出て右を見ると、そこに巨大な箱が口を開けている。高さは4階建くらい。それがこの美術館だ。
巨大な箱の前は広場で、そこに直線構成の大きなカラフルなオブジェが並ぶ。箱を少し入った正面の白い壁には、童画ふうのドローイングが黒一色で、大きく描かれている。
この美術館は丸亀市が建てたもので、建物の奥には市民活用のスペースやレストランもあるから、箱の口の左隅の階段から自由に中に入っていける。展示室には正面のドローイングのある白い壁をぐるりと回って、その裏側へと入っていく。
猪熊弦一郎はこの四国の丸亀で育ったあと上京し、上野の東京美術学校(現東京藝術大学)で学んだ。同期には小磯良平、荻須高徳〔おぎすたかのり〕、岡田謙三などがいる、そういう時代だ。
戦前にパリへ遊学し、第二次大戦の始ったあともぎりぎりまで滞在した。最後の避難船白山丸で、荻須高徳もいっしょに帰国している。
戦時中は従軍画家として、ビルマなどの最前線まで派遣されている。この辺りの事情はあまり語られないので、猪熊の書いた簡単な手記は面白い。パリでもそうだが、フランスの疎開先でも藤田嗣治が「ゲンちゃん、ゲンちゃん」と話しかけてきて、その関係が察せられる。
ぼくが猪熊弦一郎の絵を知ったのは、自分が高校生のころ、戦後10年近くたっていた。ざっくりとした太い筆捌きに原色を配した人物画が記憶に残るのは、おもに雑誌「小説新潮」の表紙絵からだ。注意して見ていたわけではなくても、書店で毎月この表紙絵が目に入っていたわけだ。猪熊はこの表紙絵を昭和23(1948)年から足掛け40年間描きつづけている。画面の片隅にあった「guén」のサインもいつの間にかこの画家の印象を形作っている。
絵の感じはマチスふうだ。パリ遊学時代も、マチスのアトリエに緊張して訪れている。その傾向のわかるのがもう一つ、三越デパートの包装紙のデザインだ。白地に赤い不定形の長円が散らばるシンプルなもので、当時発表されたばかりで評判にはなっていたが、これが猪熊弦一郎だとは知らなかった。
そしていちばん有名なのが、JR上野駅中央コンコースの壁画。この絵でみんな猪熊弦一郎を覚えているのではないだろうか。この時期までの猪熊はいつも人や動物などを描いた具象絵画だ。描写的な線が少しずつ崩れて抽象表現に向かってはいるが、抽象絵画ではない。