2024年5月4日(土)

個人美術館ものがたり

2011年1月12日

 そして「戦後」の固まった昭和30年、猪熊はまた外遊に旅立つ。ニューヨークに立ち寄ってからパリに行く予定だったが、まず降り立ったニューヨークという街の魅力に捉えられて、そのまま20年もニューヨークに住みつづけてしまうのだ。

猪熊弦一郎
(1902~93年)  
写真:高橋 章

 写真で見る風貌は、眉が濃くて目が大きく、戦後活躍したエノケンこと榎本健一に似ている。たぶんこの画家は屈託のない人だったのだろう。デザインの仕事もずいぶんしていて、ある意味、芸達者だ。何でも恐れずに描くことができたのだろう。自分の感覚に忠実で、たぶんそれをいちばん大事にしていた。だからニューヨークにそのままはまるし、そこから絵の世界もがらがらと変貌していく。

 日本にいるときは具象絵画の中でいろんな表現を探っていたが、ニューヨークからはがらりと抽象絵画に変るのだ。その流れを見ていると、ニューヨークの感覚がそうさせたのがよくわかる。

 それにこの時期に長い外遊を思い立ったということも、そういう自分の変貌への期待がほのかにあったからではないか。自分の絵のスタイルへの倦怠もあっての外遊だったとも見える。

 もう一つはこの時代の流れだ。絵の世界に抽象絵画というスタイルが押し寄せてきて、画家たちはその流れをどう受けとめるか迷っていた。具象絵画でそのスタイルを確立していた、つまり腕のいい画家ほど、抽象表現というものを時代の黒船みたいに感じていたようだ。以前紹介した宮本三郎などにも、その「黒船感」が感じられて、時代だなと思う。何でもアリのいまから振り返ると、不思議なことだ。

「顔、犬、鳥、」 1991年 アクリル・カンヴァス
©財団法人ミモカ美術振興財団

 人間は一つの世界に安住したがるし、その一方では倦きる。とはいえそこを脱け出るのは大変なことで、力もいるし運もいる。猪熊は移動して見つけたニューヨークで、その流れに素直に乗ることができたのだ。最初の個展のため送られてきた自分の日本時代の絵を再見し、何て貧弱なものを描いていたのかと手記に書いている。その気持はよくわかる。

 手記というのは、日本経済新聞のシリーズ連載で有名な「私の履歴書」だ。猪熊の連載は27回だが、その中で中学を出るまでの子供時代の話を10回分も書いている。ふつうなら画家になってからの話が多くなりそうだが、この画家は子供時代の出来事の方に気持が動いてしまう。その記憶力がじつによくて、文章も面白い。


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