東京大学史料編纂所所蔵
奉行所の経費を節約し、私生活の費用まで切り詰めて資金を作ろうとする聖謨の姿勢に共感した人々からも多額の寄付金が集まり、幕府の許可を得たうえで、毎年およそ200人の病人と貧民を支援する仕組みができあがった。自分の名前が決して出ないよう配慮したところにも聖謨の誠実な人柄がうかがえる。
聖謨は、人間だけではなく動物にもやさしかった。生きた魚をもらうと必ず池に放し、鹿が庭に侵入して菜園を荒らしても、棒切れを振り回すことを禁止し、素手で追い出すよう命じている。
聖謨は地場産業の育成にも尽力した。地元の業者と協力し、奈良の名産である墨を改良して良質の墨を作るのに成功した。また革製の素晴らしい武具を作り出すことにも成功した。
聖謨は奈良の緑化にも貢献した。奉行所付属の林に50万本の苗木を植え、さらに町の人々と協力して、数千本の桜と楓の苗木を、興福寺と東大寺の境内、高円(たかまど)や佐保のあたりに植えた。
その経緯を聖謨は「植桜楓之碑〔しょくおうふうのひ〕」に刻んでいるが、奈良に住む人々、奈良を訪れる人々、のちの世の人々のために計画したことがわかる。
いま植えた木はやがて枯れるであろうが、後世の人々がこの志を継いで植え続けてほしいと記しているところに、聖謨の見識の高さがうかがえる。
佐保川の土手で、今も満開の花を咲かせる「川路桜」は、この時に植えられた桜である。
佐保川の両岸の桜並木は奈良を代表する桜の名所になっているが、聖謨の思いを受け継いだ後世の人々が桜を植え続けたからである。
愉快なことに、聖謨は「奈良奉行」をもじった「おなら奉行」の異名でも知られている。体質のせいか、いつもおならをしていたそうだ。
五条の代官である小田又七郎とこんな狂歌のやりとりをしている。なかなかのユーモアセンスである。
評判もほどもよしの(吉野)ゝ花にまして 草木もなびく奈良の御奉行 又七郎
屁のような御なら奉行になびくのは 草木にあらず臭きなるべし 聖謨