石川:受験よりも入学してからの方が大変でした。将来の見通しなどない時代です。障害のある人を積極的に雇用しようという企業はありませんし、こちらもパソコンもインターネットもない時代に仕事ができますなんて言えませんからね。将来について非常に不安な時代でした。苦しかったのは同級生たちが見込んでいるキャリアと自分のそれとのギャップがあまりに大きかったことです。これにはかなり悩んでいました。
初瀬:それは僕にも同じような思いがあるのでよくわかります。僕は長崎の星雲高校という中高一貫校で同級生250人中100人近くが医者になる進学校でした。僕は中央大学法学部に進んで弁護士を目指していたのですが、在学中に目を悪くしてしまいました。
それまで一緒に笑い合っていた仲間と無理やり異なる道に行かされたような気持ちになって、焦りとか喪失感とか、得体のしれないどろどろとした感情を抱くようになりました。
石川:僕の前にも東京教育大附属盲学校から大学に進学する人は何人かいたのですが、当時は高等教育への登竜門という位置づけだったので、大学を卒業したあとの就職というところまでの見通しがなく、かなりご苦労されたそうです。
初瀬:大学の授業はどのように受けていたのですか?
石川:僕が大学に入学したのは1977年で一般にはパソコンが無い時代です。講義を聴いて、点字でメモを取っていました。当時は勉強をしたくても視覚障害者には学術書などあまり手に入らない時代なので、東大では学生アルバイトを動員して専門書をカセットテープに録音したり、ボランティアに読んでもらって、勉強していたのです。
いまのような高等教育における障害学生支援を促す法制度などない時代でした。
初瀬:そのとき、その時代で一生懸命やられていた方たちのおかげで、僕や後の時代を生きる人たちが大学を卒業できるようになったのかもしれません。
僕の場合は在学中に目が悪くなりましたから、大学側が配慮する予定がなかったところへ、急遽そうしなければならなくなって大変だったと思います。
石川:当時は視覚障害者の間で大学の門戸開放を訴えていた時代で、受験さえさせてもらえない大学が大部分でした。受験させてもらえたとしても、紙の答案用紙しかないので、抗議の意味も含めて白紙で提出した全盲の方がいました。
初瀬:先人たちのおかげで今に繋がっているんですね。センター試験も音声で受けられるようになってきていますし、今後はさらにそういった配慮は多様性に満ちてくるのでしょう。本人が頑張れば受験できる環境が整ってきているということです。
石川:いまは視覚障害者の受験を拒否する大学はないはずです。医学部だって受けられます。拒否する大学があったらそれは法に違反することになりますから。
初瀬:石川先生がアメリカに留学されたとき障害者に対するバリアフリーはどれくらい進んでいたのでしょうか。
石川:1983年に大学院のマスターを終えて1年間アメリカに留学したのですが、そこではすでに音声で画面を読み上げてくれるパソコンソフトがあったり点字プリンターがあったり、本を読み上げてくれる読書器があって、カルチャーショックを受けました。
視覚障害者の支援機器が産声をあげた時期だったんです。それは衝撃的でした。自分もプログラミングを覚えて、なにか作ってみたいと思いました。
初瀬:まさに人生の転機。そのタイミングでアメリカに留学できたことは大きかったですね。当時の日本はアメリカに比べてどれくらいの隔たりがあったのでしょうか。
石川:この分野に関しては20年くらいの遅れがあったと考えられます。アメリカではパソコンが出始めたとき、これは障害者の支援機器に使えるんじゃないかと同時に考えられていたのです。
視覚障害者に関して言えば、当事者が開発に能動的に関わっていました。
初瀬:その取り組みはいいですね。私もいろいろな会議に参加する機会があるのですが日本は遅れていると感じています。それは当事者が不在だからです。ユニバーサルデザインに関わっている関係で何かの製品が発売されるときに呼ばれたりするのですが、製品ができた後になって、「当事者が参加しているよ」という事実をつくるために使われているようなことがあるんです。
僕は開発段階から呼んでくださいと言うんです。僕らが開発から関わっていたら、こんなに使いづらいものは作らないはずです。
目が見える開発担当者だけが関わるから、目の見えない僕らには使いづらいものになってしまうと思っています。もちろん当事者といっても様々な当事者がいますから、ひとりの人から聞いて問題が解決するわけではないのですが、現状当事者不在で物事が進んでいると感じています。