従来の中東・イスラーム言説が、特殊なタイプの議論への一部の熱狂的な支持論者以外には、広く公的な議論と関心を喚起することのできない周辺的なものとなったのは、国民の大半が内向きで、日本国内での経済活動や、瑣末な差異を問うオタク的議論や、陰湿な足の引っ張り合いに没頭し、対外的な関心を薄れさせてきた時代には、やむを得なかったのだろう。
しかし現在は、日本の問題がグローバルな問題に直結し、逆にグローバルな問題も日本人の生命と財産、生活水準に大きく影響するという現実に、少し多くの人が気づき始めたのではないか。その過程で、中東への真剣な取り組みと関心が、各所に生じてくることを望んでいる。
最も重要なことは、中東の国際秩序に関する理念が大きな変化の過程にあるということだ。中東地域の秩序理念は、これまで「安定」を重視して「公正さ」を一定程度(あるいは全て)犠牲にせざるを得ないという原則に基づいたものだった。このような秩序理念に賛成する者も反対する者も、実際にこのような理念で地域の秩序が成り立つという事実そのものは、共通して認めていた。「イスラエルの安全のためには、周辺諸国が権威主義的政権に統治されてもかまわない」「石油の安定供給のためには、産油国の国内統治に民主的でなくても仕方がない」といった論理を公然と肯定する立場も、そのような論理を非難する立場も、現に中東地域の秩序理念の根幹が「公正さを犠牲にした安定」であることを認識していたのである。
しかし「大規模デモ」によって各国の「安定していた」強権的政権の脆弱さが露になることで、この共通認識に強く再考が迫られている。今でも「安定」が、国際社会から中東に望まれる最も大きな価値である。重要なのは「大規模デモ」が各国の政権の基盤を掘り崩す威力を目の当たりにすることで、「公正さを伴わなければ安定も達成されない」という認識が定まりつつあることだ。
もちろん、再び「やはり安定が第一だ」という論理が前面に出てくるような事態の展開もあり得る。現実問題として、エネルギー資源を握った湾岸産油国から、リビアやシリアといった国際テロも駆使してきた専制国家が同時に崩壊し混乱することは誰も望まないだろう。しかしだからといって各政権の弾圧を黙認することが安定をもたらさない、新しい現実も明らかだ。未来は誰も予想できない。だからこそあらゆる可能性を検討しながら、現実の動きに注目するのである。
また、一定の公正さを確保することは不可避としても、それでは「公正さ」はいかなる根拠・基準に基づけば良いのか。公正さを求めてなお安定を成立させるにはどのようにすればいいのか。各国と中東地域、そして国際政治システムの全体で、どのような勢力間のいかなる権力関係によって安定と公正さが維持されるのか、どのような制度を新たに設定するのか。これらはすべ て、未定の部分が大きい。中東ではここにイスラーム思想も、近代化論も、西洋化論も、民族主義も、全てが問い直されながら、提起され議論されていくだろう。だから こそ現在、中東諸国で諸勢力が主張を強め、活発に動き出している。諸外国勢力も最大限の関心を集中させてその動きを追い、関与しようとしている。
国際社会の理念とは、外から与えられて受け止めるだけのものではない。今この瞬間にも、形作られているものである。もちろん、力の強い者と弱い者は厳然といる。知っていても影響力を及ぼせないような地域のことは知らなくても良い、聞き届けられることのない発言はしない方が賢い、という考え方もあるだろう。しかし国際社会の行為者としての地位は、遠い世界での動きも我が事として察知するアンテナを張り巡らせておき、グローバルな言説空間で進む理念の組み換えに、知恵を絞っておく、心構えと知的基礎体力があって初めて得られることだ。
日本の政治経済エリートと、各所の組織を支える中間層が、「石油市場の動揺さえ収まれば中東にはもう興味はない」という程度に考えているのなら、そして、遠い世界にアンテナを張る意思も、知恵を絞る能力もない、ということであれば、それほど遠くない将来に振り返って見た時に、近代史上において日本はその程度の国だった、と評価されることになるだろう。
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