北朝鮮は「対話への歩み寄りを見せた」のか?
ここで重要なのは、南北そして米朝首脳の直接対話に至るまでの背景をどう読み解くかによって、現在、そして今後の朝鮮半島をめぐる情勢の評価が大きく変化するということだ。
日米韓各国政府の公式見解は、ニュアンスの差はあるものの「経済制裁と米国による軍事的圧力が、北朝鮮に対話の道を選択させた」という説明で一致している。もちろん、北朝鮮が対話攻勢に出てきた背景に、経済制裁の効果がないわけではないだろう。また、空母3隻を投入した米韓の大規模合同軍事演習や、頻繁な米戦略爆撃機の飛来などが北朝鮮の懸念材料であったことも事実だろう。「圧力に耐えきれなくなった北朝鮮が、自ら対話の道に歩み出た」というのが事実であれば、これは日本が当初描いていた筋書き通りということになる。また、北朝鮮の「意図」を読み解くことを専門とする一部の識者らが言うように「金正恩は核保有と経済発展の両立は困難だと決断し、開かれた経済による発展を望んでいる」との見立てが正しければ、朝鮮半島情勢の未来は必ずしも暗くはない。
だが、この説明には理解し難い点も残されている。そしてもし対話に至るまでの経緯が逆であったとすれば、評価も全く異なるものになる。
そもそも、米朝対話に至るまでの道筋を整えたのは、文大統領の積極的な対北融和外交と米朝仲介外交によるところが大きい。それは今年3月に行われた平壌およびワシントンへの特使団の派遣から、トランプ大統領の米朝会談受け入れ、板門店での南北首脳会談までの流れでも明らかである。これらの流れの中で、韓国側は金委員長に対してトランプ大統領との対話を促したわけだが、金委員長はそれをどのように受け止めたのだろうか。金委員長がトランプ大統領と会うことを望んだのは事実だとしても、彼が「対話への歩み寄りを見せた」のか、それとも「米大統領を対話の場に引きずり出せる」と踏んだのかでは、その意味合いは大きく異なる。
米朝会談に至る政治プロセスもさることながら、見落としてはならないのは北朝鮮の「能力」についてである。北朝鮮は経済・軍事双方の圧力を受けながらも、その間に非常に強力なICBM「火星15」の開発にこぎ着けるとともに、これまで達成できていなかった160キロトン超の水爆実験にも成功している。客観的に見れば、北朝鮮には弾頭の再突入技術などいくつかの課題も残されているが、火星15の発射を終えた後の重大声明で自ら「核武力完成」を宣言しているように、多少の技術的課題があったとしても、彼らが対米核打撃力の整備に相当程度の自信を得たと考えても不思議ではない。だとすれば、北朝鮮は圧力に耐えかねて対話に向かったのではなく、自らが確立した核能力を恐れた米韓が対話に応じざるをえなくなったと考えている可能性は十分にある。これはまさに日本が懸念していたシナリオである。
核・ミサイル能力の技術的進歩が、北朝鮮の態度に自信を与えてきたと仮定すると、その自信をより強くすること、つまり身の安全を他者からの言質・承認によって保証させるのではなく、信頼に足る核抑止力という実力によって担保することを重視するのであれば、北朝鮮が核・ミサイル能力の更なる向上に力を入れることは理にかなっている。
実際、南北・米朝首脳会談を経て「朝鮮半島の完全な非核化」を約束した後でも、北朝鮮は核・ミサイル能力の向上を継続している可能性が高いことが明らかになってきた。6月28日、北朝鮮分析サイト・38ノースは、寧辺にある核施設のインフラ整備作業が継続されていることを指摘。また30日には複数のメディアが、米情報機関筋の評価として、寧辺以外の秘密施設において、兵器級核燃料(高濃縮ウラン)の増産が行われている可能性が高いとした他、射程約2000kmとされる準中距離弾道ミサイル(MRBM)「北極星2」に用いられる装軌(キャタピラ)式移動発射台の増産や、固体燃料ミサイルの製造施設の増築が行われていることを指摘した。
北朝鮮が北極星2のミサイル本体を増産しているかどうかは確認されていないものの、移動発射台の増産や固体ロケットモーターの製造施設の拡張は、北朝鮮がそのMRBM戦力=日本向け弾道ミサイルを液体燃料のノドンから固体燃料の北極星2に徐々に更新し、その即応性と悪路での機動力をもって残存性を向上させようという狙いが読み取れる。これらのミサイルの残存性が向上すれば、再び朝鮮半島で軍事的緊張が高まった場合の対日核恫喝の信憑性は高まり、我々としては対処がより難しくなることになる。
つまり現時点で確かなのは、北朝鮮の核・ミサイル能力は一切低減しておらず、むしろ日本向けの弾道ミサイル能力が着実な向上を果たしているということである。これを踏まえると、北朝鮮が1〜2年のうちに非核化を達成し、その運搬手段が削減されていくとの楽観的な見通しは立てづらい。したがって、当面日本は核を持った北朝鮮との共存を余儀なくされるという「不都合な真実」を安全保障政策を考える上での前提とする必要があるだろう。