チャイナ・ウォッチャーの視点

2019年1月10日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

天安門事件以前から続く“熱帯への進軍”

 ここで時計の針を、天安門事件から半年ほど遡った1988年11月に戻してみたい。

当時、民主諸党派の1つである九三学社と四川・雲南・貴州・広西・重慶市の社会科学院によって構成された「振興大西南経済対策検討会」が江澤民総書記(当時)に書簡を送り、発展から取り残された雲南省を軸とする西南地区の開発を提言している。

 この提言に従って、「雲南省を軸とする辺境地区を南方の国際市場に向って開放せよ」(李鵬首相)との方針が決定され、中国は人口10億余の市場(インド・バングラデシュ・ネパール・ミャンマー・ラオス・ヴェトナム)と結びつけることで西南地区の社会経済開発を促すことに踏み出したのである。

 この西南開発への動きに呼応するかのように、1990年11月には香港の親中系学者などが中心となった「亜太二一世紀学会研究検討会」が極めて野心的な「亜洲西南大陸橋構想」を発表した。それは、(1)タイのチェンマイと昆明とを結んだ鉄道を成都・宝鶏にまで延伸させ、さらに西進して阿拉山口で国境を越え西ヨーロッパに繋ぐ(欧亜大陸橋)。(2)昆明から大理を経て瀾滄江(メコン川)に沿って南下させ、鉄道でASEAN諸国と繋ぐ。(3)欧亜大陸橋を軸に昆明を中継点にしてASEAN諸国とヨーロッパを結ぶ――という巨大鉄道ネットワーク構想である。

 一見して荒唐無稽に過ぎる構想だが、発表から30年ほどが過ぎた現時点から考えると、習近平政権が掲げる一帯一路に重なってくることを認めざるを得ない。

 雲南省の省都である昆明を中心にして西南地区と隣接する東南アジア大陸部の総合開発を地図化したと思われる『大西南対外通道図』(雲南省交通庁航務処製作・昆明市測絵管理処製図印刷/1993年1月発行)を見ると、この地域の主要都市に向かって昆明から放射線状に航空路線が引かれ、メコン川やサルウィン川などの東南アジア大陸部を貫流する国際河川に拡幅工事を施し物流ルートとし、昆明とシンガポールを結んだ国際鉄道路線(後に「泛亜鉄路」と呼ばれる)が描かれ、同じく昆明と周辺地域の主要都市を陸路(国際公路)で結んでいる。

『大西南対外通道図』 写真を拡大

 加えるに、「雲南水運対外通道建設計画案比較」と名付けられた付表には、建設が構想される何本かの物流ルートの概要――たとえば幹線ルートである「昆明⇒(公路)⇒小橄欖堰⇒(水路)⇒チェンセン⇒(公路)⇒バンコク」のルートはミャンマー西部、ラオス、タイ、マレーシア北部、シンガポールに関係し、公路は5年で水路は3年の建設期間を要し、総工費(約19億元)、運送能力(600万トン/1年)、総延長(約2100キロ)、輸送コスト(1トン当たり公路は288・9元、水路は192・8元)――が示される。

 しかも各ルート終着都市の先に、インド洋を越えた先のアデンなど中東の主要都市が記されているのだ。

 1990年代初頭の段階で、『大西南対外通道図』に記された関係各国や各都市が中国側の計画を承認していたとは思えない。だが2019年初頭現在、『大西南対外通道図』が目指した物流ルートは着実に建設されていることを軽視するわけにはいかない。

敢えて言うならば、一帯一路は習近平政権によって構想されたというよりも、むしろ1980年代末より東南アジア大陸部に向かって進めてきた“熱帯への進軍”という試みが土台になっている。いわば一帯一路は1980年代末から延々と続いていると見るべきではないか。

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