タイ政党の特質
総選挙を経て軍政当局の思惑通りにプラユット首相が誕生したとしても、安定的な政権運営が約束されたわけではない。その背景にはタイにおける政党の特質がある。
2月11日に中央選管から今回の総選挙に36政党が参加することが明らかにされたが、タイ貢献党、民主党、国民国家の力党、国家維持党、民族発展党、新未来党、国家発展党、タイ公民党、新民主主義党、新経済党、サイアム発展党、タイ民主社会党など主な政党の政党名からも類推できるように、一般的に政党は政治信条や政策の実現を第一義的に求めるものではなく、有態にいうなら政権入りを最大の目的としている。
これがタイの政党の第1の特質である。かくてタイ貢献党はタクシン元首相の右腕であったスダラット女史を、国民国家の力党はプラユット暫定首相を、民主党は党首のアピシット元首相を首相候補として掲げ選挙戦を戦うことになる。国家維持党がウボンラット王女を首相候補として担ぎ出したのも、そのためである。
第2の特質は基本的には地域政党の性格が強く、全国政党にまで拡大し難い。歴史が最も古い民主党にしても南タイとバンコクのインテリ層の支持はあるものの、大票田の東北タイや北タイに浸透しない。いわば下院での単独過半数獲得は至難ということになる。そこで必然的に連立政権にならざるをえないわけだが、当然のように閣僚ポスト配分を巡って連立与党内の鞘当て合戦が起こり、伴食ポストを割り当てられた政党が不満を持し、首相の指導力低下が閣内不一致・政権動揺を来すことになる。安定的政権運営は容易ではない。1990年代に政権交代が連続したのも、ここに大きな要因があった。
では、なぜタクシン政権(2001年~06年)やインラック政権(2011年~14年)では単独政権が可能だったのか。タクシン陣営が豊富な資金力を背景に中小政党を糾合し全国政党の形を整えたからである。当時の憲法では首相は下院議席を持つことが定められていたことから、クーデターを除いたなら、総選挙の勝敗が政権獲得の唯一の手段だった。
「赤シャツ」対「黄シャツ」
総選挙を繰り返しても、唯一の全国政党であるタクシン系政党が過半数を制してしまう。憲法で上院は政権運営に容喙は出来ない。当然のように既得権益層――ABCM複合体のフラストレーションは溜まるばかりだ。
中国で発生した天安門事件の小型版ともいえる「5月事件」が1992年5月にバンコクの官庁街で発生しているが、流血の惨事を引き起こした責任を問われた国軍は政治的影響力を大幅に後退させた。この事件を機に「人民による憲法起草」を掲げた憲法起草委員会が発足し、97年10月には「最も民主的内容を持つ」と内外から評価された「仏暦2540(1997)年タイ王国憲法」が制定されている。
同憲法下で総選挙を実施した結果、民主党を軸とする野党勢力や民主派からは「反王制、国家権力の独占と乱用、透明性や倫理を欠いた政権運営」などと批判されたタクシン政権(2001年~06年)が誕生する。タクシン首相が唯一の全国政党を抑え下院過半数を占めていたわけだが、それが2006年のクーデターを招き、やがて国軍の政治的影響力回復を招くのであった。民主化された憲法が文民ながら一強政権を生み出し、その政権を倒すために、総選挙ではなく国軍によるクーデターに頼らざるを得ない。民主主義の皮肉というには、あまりにも皮肉な現象といえる。
「仏歴2540(1997)年タイ王国憲法」がタクシン一強政権を生んでしまったとの判断からだろう。(1)国民の権利と自由の保護、(2)権力集中の是正と権力乱用の防止、(3)政治の透明性・道徳・倫理の確保、(4)権力チェック機関への高い権能を付与――を盛り込んだ「仏暦2550(2007)年タイ王国憲法」が2007年8月に制定された。
同憲法の下で総選挙を繰り返すが、やはりタクシン支持政党が下院過半数を制し政権を保持する。そこで上記(1)(2)(3)(4)の機能を与えられた憲法裁判所、国家オンブズマン、そして国家汚職防止取締委員会が憲法に規定され、これらの機関によって首相解職(2008年)や総選挙無効(2014年)が宣言された。だがタクシン支持政党が弱体化するわけでもない。