2月8日、タクシン元首相系の国家維持党がワチラロンコン国王の姉に当たるウボンラット王女の首相候補擁立を突如として打ち出したことから、総選挙を前にしたタイの政治情勢は一気に流動化するかにみえた。同日深夜に「王女擁立は不適切」との国王声明が明らかになったことから事態は沈静化に向かったようにはみえるが、その直後からバンコクではクーデターの噂が流れるなど、王女擁立劇の余波が当分は収まりそうにない。いや、タイ政治の今後に微妙な影響を与える可能性すら考えられそうだ。
これまで繰り返されてきた《クーデター ⇒ 国会停止・憲法廃止 ⇒ 立法議会 ⇒ 暫定憲法 ⇒ 新憲法発布 ⇒ 総選挙 ⇒ 民政移管》というサイクルに従うなら、クーデターから1年前後の軍政の後に総選挙を経て民政移管されることが通例となっていただけに、今回のように5年に近い暫定期間は確かに異例なまでに長期ではある。
とはいうものの、王女擁立劇を除くなら、総選挙を前にした軍政当局、事実上の軍政延長を支持する政党、それに軍政に反対する政党といった3者の動きは、基本的には“既視感”に溢れたものだ。
だが2014年のクーデターに及ぶに至った社会の動き、暫定期間がかくも長期化した背景を考えると、ここに示した政治サイクルが今後とも予定調和的に機能するようにも思えない。やはり今回の総選挙は、わが国メディアの常套句でもある「軍政延長か、民主化か」とか「民主主義の後退」などの“情緒的視点”では捉えられない問題を孕んでいるように思える。
「国王を元首とする民主主義」
1980年代初頭から現在までの40年弱の間、タイ語で「パティワット(革命)」と呼ばれるクーデターは5回(1981年、85年、91年、2006年、14年)に及んでいる。単純計算で約8年に1回の頻度になるが、いずれも「現政権によって『国王を元首とする民主主義』が危機に晒されている」を決起に際しての大義名分に掲げてきた。
5回のクーデターのうち80年代の2回は失敗し、1991年、2006年、2014年の3回は成功し“所期の目的”を果たした。成否の分岐点は決起勢力の国軍内外に対する影響力もさることながら、やはり王国としてのタイの根幹である「国王を元首とする民主主義」の最終的拠り所である国王が「決起の趣意」を“嘉納”したか否かにあったように思う。
1981年と85年の2回のクーデターを頓挫させることで、プレム政権(当時)は「国王を元首とする民主主義」を現実政治に忠実に反映させ、8年に及んだ長期政権を維持し社会の長期安定をもたらした。社会の安定が外資を呼び込み、80年代末から90年代前半までの高度経済成長に結びつく。ところが皮肉なことに、経済成長が従来からの政治文化に変化をもたらすことになったのだ。
1991年のチャーチャーイ政権、2006年のタクシン政権、2016年のインラック政権――クーデターによって追放された政権における政治姿勢の共通項を敢えて挙げるなら経済建設の効率化を目指した社会構造の改革であり、経済発展によって有権者意識の変化がもたらされたといえるだろう。有権者がモノを言うようになったのだ。1票の力に目覚めたというべきかもしれない。そのことが旧来からタイ社会の根幹をリードしてきた上層社会に危機感をもたらしたのである。
かつてタイの政治学者の1人は、上層社会をABCM複合体と表現した。A(王室)・B(官界)・C(財閥)・M(国軍)である。いわばABCM複合体こそ「国王を元首とする民主主義」を下支えしてきたということになる。
以上を言い換えるなら、「国王を元首とする民主主義」に抵触する可能性があったからこそ、チャーチャーイ、タクシン、インラックの3人の首相は政権を失ったのではなかったか。ならば「国王を元首とする民主主義」は経済発展と背反するのか。誤解を恐れずに言うなら、2014年に成立して以来のプラユット暫定政権で経済政策の司令塔を務めるソムキット副首相の振る舞いが、「国王を元首とする民主主義」の下でも経済発展が可能であることを示しているように思える。つまり両者は必ずしも相反するものではないということだ。
因みに同副首相は、チャーチャーイ政権で首相の私的ブレーン(「ピサヌローク邸グループ」)の中核として経済政策に民間活力を大胆に導入し、タクシン政権では「タクシノミクス」と呼ばれるタイ経済政策の策定・推進者でもあった。同政策がもたらした経済成長によってタクシン首相に対して内外から高い評価が生まれたことは既に知られたところであるが、じつは2006年のクーデターで発足したソンティ暫定政権でも、ソムキットの経済政策責任者としての政権入りが持ち出されたことがある。