朝鮮半島の歴史が暗示する“金正恩の末路”
同じ専用列車の長旅ながら威風堂々たる往路に較べ、復路は意気消沈――メディアが伝える印象は全く違っていた。だが昨年のシンガポール以来、ここまで西側メディアに“露出”してしまった以上、金正恩委員長は以前のように“神秘のベール”の内側に閉じこもったままではいられないだろう。やはり国際社会に向けて何らかのメッセージを発し、関係諸国との関係再構築を模索し続けるのではないか。
そこで浮かんでくるのが、朝鮮半島の独裁者が激変する国際社会にどのように対応するのかという問題である。金正恩委員長の“次の一手”を考える時に思い至るのが、李氏朝鮮第26代国王で大韓帝国初代皇帝(在位1864年~1907年)に就いた高宗(1852年~1919年)と閔妃(明成皇后/1851年~95年)の2人の最高権力者の振る舞いである。
清国朝貢体制下に置かれている以上、国際関係における選択肢は極めて限られたものだった。そのうえ相次ぐ宮廷内クーデターと内乱、さらには日清・日露戦争を経て日韓併合へと続く歴史の奔流に、高宗と閔妃は時に道化振りを発揮しながらも立ち向かった。そこで2人の事績を描いた『高宗・閔妃』(木村幹 ミネルヴァ書房 2007年)を引用しながら、彼らの“獅子奮迅の姿”を追ってみたい。
高宗の実父である大院君は、高宗即位から10年間の大院君執政期と呼ばれる時期に「朝鮮王朝において最も大きな権力を振るった」。だが財政政策に失敗したことで「農村のさらなる窮乏化をもたらし」てしまう。「清国やロシア国境に近い地域では、国境を越えて逃亡する農民が続出し、王朝経済の崩壊は、国防面において問題をもたらすことになる」。ということは「脱北」という現象は金王朝三代の治世だけに起こったわけでもなさそうだ。
皇子である義親王は妃より格下の貴人である張氏との間に生まれたことから宮廷外で育てられただけでなく、高宗のお膝元の「漢城府を離れて日本やアメリカ等、海外を点々とすることを強いられた。その意味で、同じ皇子であっても、義親王の立場は、兄である皇太子や弟である英親王より遥かに劣るものであった。/高宗もまた、海外留学中に浪費癖のあった義親王を快くは思っていなかった」。
ここに記される義親王の境遇は長く海外に留め置かれた金正日の実弟を思い起させるに十分であり、また海外留学中の浪費癖が原因で父親から「快くは思われていなかった」という点は一昨年2月にマレーシアで暗殺された金正男を連想させるから不思議な因縁だ。
高宗が勅令で自らを大韓民国の陸海軍を統括する「大元帥」と定めた1898年、「自らの下で皇太子が『元帥』としてその一切の統率に当たることを明言した」。同時に「『非常事態が発生したり、出征しなければならない状態が起こった場合を除き』、皇太子以外の皇子、皇孫を、その下の大将に任ずることができないように定めている」。これを権力維持のための伝統的手段と考えるなら、実兄である金正哲に対する金正恩委員長の振る舞いもなんとなく納得できてしまう。
対外関係では、「第一に(宗主国の清国を差し置いて)、自らの密書による秘密外交で西洋列強を引き込もうとすること、そして第二に、その事が露見した場合には、それを直接の交渉に当たった臣下の責に帰すること、第三に、その場合に工作の対象となった列強には最大限配慮するというやり方である」。
「対外関係と国内問題の区別さえ、曖昧だった」高宗ではあったが、「それを高宗の権力欲や金銭欲からのみ出たものだと考えるのは拙速であろう」。それというのも、そうすることが彼にとっては「自らと自らの家族を守ることに直結していたからである」。
『高宗・閔妃』は「こうして本当の破局がやってくることになる」と、印象的な一文で結ばれている。
1990年代初頭にベルリンの壁が崩壊し、ソ連が解体され、東西冷戦構造が崩壊し、資本主義の勝利が叫ばれ、アメリカ一極構造が生まれた状況を捉え、フランク・フクヤマは「歴史の終わり」と評した。だが、歴史に終わりはなかったようだ。
以上、朝鮮半島情勢にもアメリカ政治にも全くの門外漢ではあるが、ハノイにおける米朝首脳会談をめぐっての若干の思いを綴ってみた。
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