2024年4月20日(土)

明治の反知性主義が見た中国

2019年6月12日

西欧列強に大きく出遅れていた日本

 明治32(1899)年2月14日、一行は郊外のカトリック教会と付属施設を訪問した。10数名のフランス人宣教師が常駐しているとのことだが、彼らは「服装弁髪全く支那風に粧ふて、自在に支那語を操れり」。礼拝堂、教室、図書館、孤児院などの諸施設があるが、「図書館の設備は就中最完全せるが如し、洋書は勿論大抵の漢書は之を貯蔵せり」。「孤児院には未就業の孤児百余名あり、支那人の牧師を以て保護監督と為せり、人誰か一見して其忍耐の堅固なるに驚かざらん」。かくして「一行参観の際無限の感慨を発」したという。

 ところで日本は日清戦争後、李鴻章など清国側要人の要請を受け軍事顧問(正式名称は「清国応聘将校」)を送り込んでいるが、これが陸軍における中国情報専門の所謂「支那通」を養成するコースの1つとなっていく。1902年に陸軍大臣は ①日本の対清国政策における重要な柱である清国軍政改革に努めよ。②日本の実力を扶植することに努めよ。③任地での情報収集に努めよと訓示しているが、加えて清国在住の外国人を刺激しないよう極力留意し、自らの身分を公言せず、軍服を避け支那服を着用するように勧告している。

 大谷一行が上海郊外の教会で出会った時、フランス人宣教師は「服装弁髪全く支那風に粧ふて、自在に支那語を操れり」というから、すでに相当の期間を上海で過ごしていたと思われる。いわば我が陸軍大臣訓示より早い時期から、フランス人宣教師は現地社会に溶け込んでいた。フランスがそうならイギリスもロシアもドイツも、ましてやアメリカだって日本に先行していた・・・やはりインテリジェンス面でも日本は大いに出遅れていたと考えるべきだろう。

「日中問題」を2国間関係だけで捉えてはいけないワケ

 「服装辮髪全く支那風に粧ふて、自在に支那語を操」る宣教師を考えた時、彼らの活動がフランスの清国政策に彼らの活動が有形無形の影響を与えたであろうことは容易に想定できる。

 であればこそ、日本陸軍の支那通はもとより、「心猛くも鬼神ならば・・・」などと蒙古放浪歌を口ずさむことを好んだような大陸浪人と宣教師の活動を国策の観点から比較するなら、彼ら宣教師に一日の長以上の優位性を、残念ながら素直に認めざるを得ない。たしかに残念なことではあるが、この残念さは将来に生かされてしかるべきだ。

 1840年のアヘン戦争に始まり1949年の中華人民共和国建国前後までの110余年の間、中国大陸を舞台に激しく展開された列強間の勢力争いにおける日本の振る舞いを顧みるなら、やはり“初動の立ち遅れ”の意味は決して小さくはない。

 結果として日本は敗北を喫し、中国大陸から追い出された。いや中国の戦場では負けてはいないという見方もある。たしかに中国大陸の戦場における戦闘のみに限定するなら、昭和20年8月15日の段階でも、日本軍は継戦能力を依然として保持していたかもしれない。だが、戦争は戦場の戦いのみではない。もう一方の戦場である政治(外交)の戦いで、日本は敗北した。この事実を否定するわけにはいかない。

 誰が騙したとか。誰に騙されたとかの議論は大いに重ね、当時の日本を取り巻いていた国際政治の実態(=カラクリ)を解明すべきだが、その一方で、なぜ騙されてしまったのかという議論が余り聞かれないのが不思議でならない。結果として騙されてしまうに至った日本側の政・官・軍の意思決定メカニズムを再考することは、現在に至る日本外交の病理の解明に繋がるに違いない。

 日本によって中国沿海の制海権を押さえられ、首都の南京を落され、逃げ込んだ先の重慶を攻略されたにもかかわらず、蔣介石が白旗を掲げることはなかった。重慶という山岳都市に立て籠もりながらも蔣介石は生き延びた。じつは蔣介石が命脈を保つことができたのは、一方ではアメリカにおける猛烈な宣伝工作であり、一方ではビルマから雲南を経由し、あるいはヒマラヤを越えて運ばれた膨大な支援物資あったればこそ、ではないか。かりに当時、日本の最高指導部がイギリス、フランス、ドイツなどと中国との間のネットワークを的確に把握し、それら国々の最高意思決定層の動向を歴史的文脈の中で冷徹に注視していたなら、おそらく中国大陸と外交という2つの戦場での日本軍と外交当局者の戦い方も、自ずから違っていたはずだ。

 かねてから日中問題を主に日中2国間関係のみで捉えている限り日本は歴史問題の隘路から抜け出せないと考えているがゆえに、やはり日中問題を歴史的にはアヘン戦争以降の中国における列強の利権争奪のための戦いという視点から、地政学的には日本もまた中国大陸を取り囲む国の1つとして――時間軸(垂直)と地理軸(水平)の両方向から捉え直す必要があるはずだ。


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