背景に検察内部の抗争
法務総裁を更迭に追い込むほど東京地検を激高させた木内曽益次長検事の左遷、その背景にあった検察の対立とはどんなものだったのか。
戦前、戦中、「裁判所検事局」という位置づけだった検察は、時代を反映して特高警察を指揮する思想検事が、その主流を占めていた。戦後の民主化によって検察庁が発足すると、それらの勢力は衰退し、かわって汚職や脱税など経済事件を扱う〝捜査検事〟が台頭する。かれらは新設された東京地検特捜部を拠点に、政治家、高級官僚らの腐敗摘発に取り組んだ。
代表的な事件が昭和23年6月に発覚した昭電事件だ。大手化学工業会社、昭和電工の社長が復興金融公庫からの融資獲得のため、政官界に多額のわいろをばらまいた。副総理、西尾末広(後の民社党委員長)、民主党(当時)の重鎮、大野伴睦(後の自民党副総裁)、大蔵省主計局長、福田赳夫(後の首相)、さらには事件によって総辞職に追い込まれた芦田内閣の首班、芦田均までが逮捕された
ここに名を挙げた人たち全員のほか、多くの被告が無罪判決を受けたこともあって、政官界が、こうした検察の強引な捜査ぶりに危機感を抱き、これに傍流に追いやられていた思想検事の流れをくむ勢力が便乗した。45歳の若さで就任した大橋が、捜査検事の代表格であった木内の追放を強行したのは〝検察ファッショ〟への危機感に共感したからに他ならなかった。
大橋は強気で、次のターゲットは馬場だと公言していたが、その本人から手ひどい反撃を受けたことになる。
馬場はその後、検事総長に栄進、検事の最高を極めた。
こうして日本における法務・検察の抗争は、一応は検察の勝利におわったが、大橋にとって全面敗北だったかといえば、決してそうではなかった。疑惑を取りざたされる政治家は声望を失うことが多いが、大橋は次の内閣改造で法務総裁を追われたとはいえ、無任所相で閣内にとどまり、約10年の時を経て、池田内閣で労働大臣(昭和37年)、続く佐藤内閣で運輸大臣(昭和41年)に就任するなど、その後も長く政界で活躍した。政治家としての能力がそれほど卓越していたということだろう。