受験→進学→就職、というルートの中で賄えることは、人生のほんの一部だと改めて確認できる。何ならこのルートを辿らずとも幸せに生きている人はいくらでもいる。もっと言うと、あまりこのルートに固執していると、人生100年を満たすだけのコンテンツを追求する力を養っていく時間や気力を、削いでしまうのではないか、とさえ思う。やりたいことをやる、というのは能動的な学びの姿勢そのものであり、それこそ受験勉強と同じで身につくには時間がかかる。
「受験していい学校に入れば、人生の選択肢が増えるんだよ」と諭す親は、その部分に対するリアリティがあるのだろう。ただ、それ以外のリアリティはないのかもしれない。
筆者は、二拠点生活を続ける中で、本当にいろいろな生き方をする人たちと接する機会を得た。そして、子育てにおいては “幸せの多様性”を親がありありと知っておくことが、非常に大事なのではないかと考えるようになった。
生き抜く力を与えてくれる二拠点生活
思えば、不思議なものだ。
小さな頃は、「こどもの創造力をのばしましょう」とのびのび子育てを称賛されるが、10歳を過ぎた頃から突然「勝負は勝て」と育てるようになり、60歳が見えてくるようになるとまた突然「人生、勝負ではない」と言い出す人が増えてくる。人生100年のうちの50年は勝負を強いられ、あとの50年は勝負ではないという価値観なのだから、普通に混乱する。
子育ての短期目標に「受験合格」を据える時、そうした人生の大きな流れを頭の片隅に置いておくといい。弱肉強食の理屈だけで生ききれないのが、人間という生きものの特徴であり、価値であると考える。
さらに、闘って勝つべき相手は受験のライバルなのだろか、と問うてみる。とかく人は比較の対象を近くに置きがちだけれども、勝って生きて残るというのが本来目的だとすると、闘う世界の範囲をうんと狭めて競争するだけでは勝てる相手も限定される。
二拠点生活をしていると、都市生活では遭遇しないような存在を相手に闘う局面が少なくない。敷地を荒らしにやってくるイノシシ、畑が沈没するような大雨、台風でボッキリと折れて道を塞ぐ大木、泥で詰まった排水管、突然もらった丸ごとの魚…。おろおろする時間があれば、自分のできることをひとつでも多くすることが優先だ。
問題への対応を考え、場数を踏んでスキルを磨き、慌てず対応できる自信をつける。「何のために学ぶのか」という目的が明確な学びは身に入る。実はこれは、受験勉強でも同じことが言えるのではないだろうか。
ちなみに、上に挙げた4人のうち、4番目は息子である。継げる家業もなければ財産もないのだから、自分の足で立って食べていけと小さな頃から伝えていた。それは、いいところに就職するといったレベルではなく、アルマゲドンが起きても生き延びる生命力を宿してほしいという願いだった(幸せを願うというより、生きていればいいというところに力点があった)。それで田舎で放牧するように育てたところ、少なくとも食糧調達能力はついた。
結局普通の大学生になってしまったが、「俺は何があっても生きるには困らない」というのが精神安定につながっているようだ。
幸せに生き切るのは存外難しいが、生きてさえいれば、選択肢は無限にある。子どもたちには、その地平に立っていてほしい。愛しいこどもたちが目の前の勝負に打って出る受験期だからこそ、今一度かみしめたい思いである。
次回は、そうは言っても達観できない親たちに、受験にさえ有効な二地域居住での学びについて伝えたい。
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