2024年2月26日(月)

この熱き人々

2020年3月26日

 若宮はそれを敢然と受け入れている。型にはまってしまった輪島のイメージを外して漆の可能性を追求したいという思いの源は、生まれ育った輪島への誰よりも深い愛から発しているように思える。

 

 若宮は、1964年に輪島で生まれた。が、高度成長期に入って漆器で賑わう中心部を遠く眺める輪島市の外れ。家はコメを作る農家だった。

 「千枚田の近くです。高祖父の頃は漆農家で、漆掻(か)きをしていたようです。日本に漆芸があり、輪島に漆の木があったから、漆に関わる文化が生まれ、地域は輪島塗で繁栄したわけですよね。母も輪島塗の工場で働いていましたから、そのおかげで生きてきたとも言えます」

 かつては贅沢品だった漆器を庶民も手に入れられるようになったのは戦後の高度成長期以降。そんな流れの中で輪島は漆器の代表格になり、画一化された規格品が日本中に広まっていった。景気のいい時代がそろそろ終焉を迎える頃、若宮は塗師屋に就職した。木地師、塗師、蒔絵師、沈金師と完全に分業制の輪島塗の世界で、塗師屋は「塗師屋様、旦那様」と呼ばれ、お金もノウハウも塗師屋に集中して、孫子3代まで職人の面倒をみてくれるという存在だった。そこで若宮は営業を担当することに。

 「木地師、塗師、蒔絵師に発注するので職人たちと知り合えて、問屋、貨店を回ることでお客さんとも接する仕事だったので、全体像が見えました。職人が技術の粋を結集した高級品を、お付き合いで買っていただいて封も切られないままだったりする。これは何なんだろうという疑問がありましたね」

 思いのこもらない規格品が大量に出回り、思いを込めたものも思いは伝わらない。4年で若宮は退職し、24歳で喜三誠山(きそせいざん)に弟子入りして蒔絵技法を学び、やがて平澤道和(ひらさわみちかず)に漆芸の基礎を学んでいる。

 「自分で作りたいものを作って、ちゃんと売りたい、買ってもらいたいという気持ちだったんです」

 遅すぎる修業時代は、輪島塗だから買ってもらえた時代は終わり、塗師屋の力も弱まり、まさに輪島が衰退していく厳しい時期でもあった。職人として作品を作り、ドイツの博物館の茶席道具に選定されるなど評価を得ながらも、何をしたらいいのか悩み、売れないから食べていけないことにも悩み、出した答えが2004年の彦十蒔絵の立ち上げだった。


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