東京と房総の往復で培う多面的な視点
上で「なぜ?」に出会うための要件は2つほど思いあたると記し、1つ目は、知りたいという欲望が引き出される環境に身を置くことだと述べた。
もうひとつある。それは、「なぜ?」を見出す力をじっくりと育てていくことである。
また、別の日のことだ。
我が家が毎夏泳ぎにいく房総半島の海のすぐ近くに、残土埋立場ができた。「どうやらできるらしい」という話が持ち上がった頃から、反対運動やら行政と民間とのやりとりやらが漏れ聞こえてきた。慣れ親しんだ海に起こる一大事だと、他人事ではいられなかった。
魚が好きでシュノーケリングが趣味の息子は、この埋立計画に興味を持ち、父親の力を借りていろいろと心配なことを調べていった。
「持ち込まれる残土が汚染されていないって言うけど、どうやって調べているの?」
「処分場から流れ出る水が海に流れて、海をよごさないって誰か調べたの?」
「3年間、ダンプが毎日100台通るんだって。あの海の前の道、すごく狭いじゃん。あんなところにダンプ通ってあぶなくないの?」
「埋め立てる山の斜面は50度だって!!スキーだとさあ、30度でも直角に感じるくらいきつい斜面だよ。そんな盛り方で崩れないの?」
海が汚されてはかなわない、という思いから、埋め立てられる環境についてゴリゴリ考える息子に「じゃあ、この残土っていうものは、何だか知っている?」と聞いてみた。
「うん、パパから教えてもらった。工事の時に出るいらない土でしょ。工事がたくさんある東京で出た残土を、こんどは千葉にもってきて捨てるんでしょ。つまりここの緑の山は削られて、産業廃棄物の混じったいらない土の山ができるんでしょ。もー、おかしくない?東京さえよければいいってこと?東京おかしいじゃん。…でもさあ、東京なんていらないって言っても、うちも東京にあるじゃん?文句言っているのと言われているのと、オレどっちもじゃん」
彼は意外にも、海への影響だけに囚われず、一連の経験を通じて社会のからくりを見抜こうとし、そこに当事者意識を発動させていた。
初めは砂漠のような風景への違和感をぽろりと口にしただけだったが、そこから見える風景の意味を考えはじめ、都市と里山を往復する中でばらばらに認識していた現象を、次第に関連付けて思考するようになるプロセスが見えるようだった。
そして、こどもが自分の中で問いを深めていくのには、それなりの時間がかかる。時間をかけて問うていく作業を、妨げてはいけない。