2024年4月20日(土)

Wedge REPORT

2020年3月24日

日本などがボイコットしたモスクワ大会

 開催にはこぎつけたもの、不完全な形を余儀なくされた1980(昭和55)年のモスクワ五輪を忘れることができない。1979(昭和54)年暮れ、ソ連がアフガニスタンに侵攻、米ソ間で続いていたデタント(緊張緩和)が終焉を告げた。米国のカーター政権は制裁の一環としてモスクワ五輪不参加を表明、各国に同調を求めた。

 日本は当然、参加を望んだが、当時の伊東正義官房長官がJOCの会合に乗り込んで選手派遣取りやめを強く要請、JOCは泣く泣く従った。参加を見送った国は日本はじめ中国、当時の西ドイツ、韓国など約50カ国にのぼった。一方で英国、フランス、イタリアなど有力国は参加した。

 「政治とスポーツは別」というスローガンが全くのお題目にすぎないことを明確に示したケースだった。

 ソ連など旧東欧諸国は、その報復として1984(昭和59)年の米ロサンゼルスの夏季五輪をボイコットした。表向きの理由は、1983(昭和58)年、東側との関係が強かったカリブ海の小国、グレナダへ米軍が侵攻したことへの抗議だった。

テロで選手に犠牲者、ミュンヘン大会

 会期中、テロの襲撃を受け選手団などに犠牲者がでたのは、1972(昭和47)年8月から9月にかけて開かれた西ドイツ(当時)のミュンヘン大会だ。

 パレスチナのテロリストグループ「黒い9月」が選手村のイスラエル選手団宿舎を襲撃。2人を殺害、選手らを人質にとって、テルアビブ空港乱射事件(1972=昭和47年)の犯人、日本赤軍の岡本公三らイスラエルに拘束されている仲間の釈放を要求した。イスラエルがこれを拒否して交渉が決裂、脱出しようとした犯人グループと空港で銃撃戦となり。人質9人を含む14人が死亡した。

 五輪の中止を求める声もでたが、IOCは大会を続行した。


新着記事

»もっと見る