1917年にロシア革命が発生してソ連が成立すると、ソ連は一旦ロシア帝国の遺産を精算し、中央アジアの人々に民族ごとの共和国を組織させることによって、《様々な民族の平等な連邦としてのソ連邦》を創ろうとした(これはその後看板倒れになってしまうのは周知の通りだが、1991年にソ連が解体した結果すみやかに今日の中央アジア諸国が成立する土壌が出来上がったのも確かである)。このときソ連は、天山山脈南東のオアシス出身者について、古代王国の名称にちなんでウイグル人と命名し、その名がソ連・社会主義の影響の下で反中独立運動を進めようとする民族主義者を中心にすみやかに受け容れられた。
これが、今日のウイグル人というアイデンティティの出発点である。そして彼らは、同じくソ連によってカザフ人と定義された遊牧民ムスリムなどと連帯しながら、中国が新疆と呼ぶ天山山脈南東の地全体を《東トルキスタン》すなわち「東のトルコ人の土地」と名付け、独立運動の烽火を度々あげた。
有力な指導者を失ったウイグル人社会
しかしこのような情勢は、日中戦争もあって一層「神聖不可分な領土」への信仰を強めた中国にとってはなはだ都合が悪い。当時新疆を支配していた軍閥は、東トルキスタン民族主義運動に対して弾圧を強めたし、成立直後の中華人民共和国も民族主義者に適当なポストを与え、「統一多民族国家」の枠内に丸め込もうとした。
また、中国共産党政権の少数民族政策の根幹をなす「民族区域自治」では、少数民族の独自言語による教育権や、少数民族幹部が現地政府の中核となることを認めているが、これは従来の一律に中国化・漢化を迫った清末・民国との違いを打ち出し、少数民族の支持を取り付けるためでもあった。
ところが、東トルキスタン民族運動の有力な担い手たちは、1949年10月の建国式典に招待されて北京に向かう途中全員墜落死してしまう。一方、上記「民族区域自治」はすぐに骨抜きになった。中国のあらゆる政府・組織においてはそのトップではなく、その政府・組織の共産党委員会の方が優越するという仕掛けがあるのみならず、少数民族地区の共産党委員会トップは少数民族でなければならないという内規もない。したがって、北京からイエスマンの漢民族を現地共産党委員会トップとして送り込み、政府の少数民族のトップに睨みを効かせることはいくらでも可能である。新たに成立した新疆ウイグル自治区もその例外ではない。
漢語が流暢でないと就職も不利に
したがって、有力な指導者を失ったウイグル人社会は、中国内地からの漢民族の力に圧倒されやすい環境にさらされることになった。のみならず、1957年の「反右派党争」以後になると、少数民族のさまざまな不平不満は全て「地方民族主義」「分裂主義」として断罪されるという恐怖政治の構造が出来上がってしまった。この流れは毛沢東時代にとどまらず、むしろ1990年代以降の爆発的な経済発展、とりわけ1999年以後の「西部大開発」以来、加速度的に中国内地から巨大資本と漢民族移民が流入することで一層深まっている。
この結果、本来の住人であるウイグル人は、単に人口面で漢民族に逆転されつつあるのみならず、漢語が流暢ではないという理由で就職の機会も十分ではなくなっている。さらには、「就職に有利になるように」という理由で民族言語教育が縮小されつつある。もはやウイグル人は、区都ウルムチなど漢民族が闊歩する大都市の煌めくばかりの《発展》とは裏腹に、固有文化と近代化のバランスある発展など論じようもないほどの苦境に追いやられているのである。