2024年11月21日(木)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2012年7月23日

 そして1989年の天安門事件は浦の人生を大きく転換させることになった。中国政法大学の大学院生だった浦は、天安門広場でハンガーストライキに参加した。当時(24歳)の写真が中国語・繁体字版(繁体字は主に香港や台湾で使われる)のウィキペディアに載っている。

 これは1989年5月10日に人民日報社の入口で、『世界経済導報』の取り締まりに抗議していた時に撮影されたものだ。『世界経済導報』は1980年代を代表する進歩的な新聞だが、胡耀邦の解任を批判し、名誉回復を要求する内容の記事を掲載したため、発行停止処分となっていた。写真で浦は、セメントをつめる袋を適当に加工し、そこに「報道自由、結社自由」などのスローガンを書いてつくったベストを身に着けている。浦は「ここに書いた数行が自分のライフワークになるなんて思ってもみなかった」と話す。

 浦は本当は大学の教授になりたかったが、天安門事件でその夢はかなわかった。そして、何度も転職した後、1995年に年老いていく母と妻子を養う手段を考え、弁護士資格を取得した。「言論の自由は中国人が人として生きていくことを可能にする。すべての人の自由の空間を拡大する」――。浦はその気持ちを常に心に抱き、言論の自由を求めて努力を続けている。

労働教養処分の撤回を求める裁判に勝訴

 来日2日前の6月30日、浦が担当していた訴訟で原告の方洪(ハンドルネーム:竹笋)が勝訴した。方は、本コラムでもたびたび紹介している重慶市の「打黒」(黒社会一掃キャンペーン)で逮捕された黒社会のボスの弁護を担当した李庄に対する訴訟に関して、卑語を使って当時の重慶市書記・薄熙来らを皮肉ったとして、2011年4月22日労働教養の処分を受けた(『黒社会化する地方政府 薄熙来失脚後の中国の行方』参照)。方は労働教養所から出た後、浦を頼って裁判を起こし、これを無効とするよう要求した。浦は所用で法廷には立てなかったが、共に弁護人を務めた斯偉江が浦の分まで主張を展開した。

 方がミニブログに投稿したのは、次の70字程度の文だ。

「勃起来(薄熙来)屙了一坨屎,叫王立軍吃,王立軍把这坨屎端給検察院吃,検察院端給法院吃,法院端給李庄吃,李庄的律師説,李庄不飢,誰屙的,誰自己吃」

日本語訳:薄熙来(勃起来と発音が似ている)が一塊の糞をして王立軍に食べさせようとしたが、王立軍はこれを検察院に持って行った。検察院は裁判所に持って行き、裁判所は李庄に持って行った。李庄の弁護士は、李庄はお腹がすいていないから、糞をした人が自分で食べればよいと言った。

 昨年8月3日付けの私のコラム(『「黒」を制し「赤」を煽る中国・重慶市』)で紹介したように、偽証罪で有罪判決を受け服役していた李は刑期満了まであと数カ月という時になって、過去に担当した訴訟についても証拠偽造があったとして再び起訴された。法学者や弁護士、メディア関係者が中心となってこれに反対の声を上げたところ、重慶市検察当局は李の起訴を突然撤回した。方はこの時の様子を面白おかしく表現したのだった。ちなみに、方の弁護を浦と共に行った斯偉江は、李が二度目に起訴された際に李の弁護人を務めた。

 方はミニブログに投稿したその日に公安局に逮捕され、当局の命令に従って投稿を削除した。しかしその2日後には『行政拘留決定書』を渡され、社会秩序をかく乱した罪で10日間拘留された。その後、労働教養(強制労働処分)1年の決定が下された。この間、弁護士を立てることも、不服を申し立てることもできなかった。


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