2024年2月21日(水)

使えない上司・使えない部下

2021年1月8日

怖かったら、リングに上がれない

 すべての試合を今も覚えていますが、特に日本ジュニア・ライト級チャンピオンの渡辺雄二選手との試合(1992年1月)は強く印象に残っています。渡辺選手は、デビューから7戦7勝7KO。世界チャンピオンを狙えると言われていて、初防衛戦の相手が自分だったのです(鈴木さんは、当時13戦11勝6KO1敗1分、日本ジュニア・ライト級1位)。

 1ラウンドで2回倒されましたが、その後、激しく打ち合いました。7ラウンドで右の目の上を(深さ7ミリ、幅2センチ)切り、前歯が折れた。それでも、逆襲をしていきました。9ラウンドで、レフリーストップとなったのですが、自分なりに死力を尽くしました。倒れても、倒れても起き上がったことはよく覚えています。

 怖い? それはないですね。毎試合、覚悟を決めてリングに上がっていましたから。死ぬかもしれないと思い、身の周りはいつもきれいにしていたのです。親には申し訳ないのですが…。試合後に後遺症になるんじゃないかといった恐怖感もありません。怖かったら、リングに上がれないでしょう。とにかく、好きだった。ボクシングが…。闘うことが、単純に好きでした。

 あの試合で歯を折られましたが、試合中は痛いといった感覚はありません。試合後、食事の時に折れた歯で舌が切れたことがあり、この時は、痛かったですね。

 その後、全日本ボクシング協会から月間敢闘賞をいただきました。自分の記憶では、日本タイトルマッチで負けて賞をいただいたのは、当時日本バンタム級チャンピオンで、後のWBC世界バンタム級チャンピオン山中慎介選手と戦い敗れた現在IBF世界スーパーバンタム級暫定チャンピオン岩佐亮佑選手だけだと思います。ノンフィクション作家・佐瀬稔さんが、著書「敗れてもなお 感情的ボクシング論」の「敗者の誇り」という章に、自分の物語を書いてくださいました。

 渡辺雄二選手はとても人気があり、2人の試合が週刊誌「FRIDAY」や「週刊少年ヤングジャンプ」に掲載されました。「別冊ワールドボクシング」の表紙にも、打ち合っている写真が載りました。この試合は、YouTubeで「日本ジュニア・ライト級選手権【渡辺雄二 vs 鈴木敏和】」で観ることができます。

死ぬんじゃないかという苦しいトレーニング

 その後、日本スーパーフェザー級チャンピオンになりました。阪神淡路大震災が発生した1995年1月の3か月後の4月に、3度目の防衛戦が予定されていたのですが、練習ができなくなったのです。地震で所属ジムの神戸拳闘会のビルには亀裂が入り、使用不可となり、閉鎖となりました。試合は、6月に延期されました。先輩や知人から支えられ、2月下旬から加古川ジム(兵庫県)、5月からは筑豊ジム(福岡県)で練習をしていたのです。

 6月の試合以降は、現実的に選手続行は難しいと思っていました。所属ジムが閉鎖されたからです。12日間で10キロ減量しました。10日間はほとんど食べずに、サウナで水分を抜く。このペースで落とすのは本来、いいことではないんですね。この時は自己管理やトレーニングが、順調ではなかったのです。

 ふだんは試合前の減量は、平均で9キロ落としていました。58.9 kg まで落とすのですが、自分の場合は61.5㎏ぐらいからさらに落とすのが、キツかった。ジムの計量の上に乗っかるのも、苦しい。階段を降りるのが、辛い。腹部と背中がくっつくぐらいの感覚になります。

 あの試合ではリングに上がった時、これが現役最後になるだろうなと思っていました。ダウンさせられて、そのまましゃがみ込んでいれば楽になるかなと感じたのですが、フッと頭をよぎったんです。死ぬんじゃないかという苦しいトレーニングをしてきたことを…。気がついたら、相手のコーナーに突っ込んで、連打でダウンさせていました。

 思い起こしたのは、走り込みのトレーニング。もともとよく走りましたが、加古川ジムにお世話になった時は一段と走り混みました。死ぬんじゃないかっていうぐらいに、とにかく走った。まず、800 メートルのコースを全速力でダッシュ。その後、200メートルのジョギング。また、800 メートルをダッシュ。この繰り返しで、合計で800 メートル、200メートルをそれぞれ10本。その後、さらに筋力トレーニング。当時加古川ジム所属の西岡利晃選手(後のWBC世界スーパーバンタム級チャンピオン)らと一緒に走りました。


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