サザン・ホスピタリティ
さて過去3回では、サザンバプティストの偏狭な部分を取り上げてきたが、決して嫌な思い出ばかりではない。
12月に入ったばかりのある日、1学年下のタミーという女の子がこう話しかけてきた。
「クリスマスの休暇中、行くところ決まった?」
寮は休暇になると閉まるので、帰国をしない留学生は行く場所を探さなくてはならない。
「両親が、良かったらうちに来ないかと言ってるの」
きっと「行くあてのない留学生がいたら、うちに呼びなさい」と親に言われたのだろう。ありがたく、手元にあった日本の土産物を抱えて1週間ほどのクリスマス休暇にお邪魔した。
「自宅のつもりでくつろいでね」そう言って歓迎してくれたおかあさんは黒髪で頬骨が高く、チェロキーインディアンの血が入っていると言っていた。
アメリカには、サザン・ホスピタリティという言葉がある。南部人のもてなしの温かさを形容する言葉だが、タミーの両親の家ではまさにその意味を身を持って実感した。
タミーにはトレイシーという小学生の妹がいて、日本人を初めて見た彼女はまるで子猫のように懐いて、ずっと私のそばを離れなかった。
クリスマスイブには、大きなダイニングテーブルいっぱいに料理が並んだ。メインは巨大なローストハムで、白い豆をシチュー状に煮込んだものと一緒に食べる。
「ワオー・デリシャス!」
「アメージング!」ホームステイをすると、英語の誉め言葉のボキャブラリーが活躍する。でもそれはお世辞ではなく、ハムの脂身の味がしみた豆は癖になるほどおいしかった。
クリスマスツリーの下に山積みにされていたプレゼントの中には、驚いたことに私の名前が書かれたものが何個も用意されていた。クリスマスツリーは必ず外から見える窓際に飾るというのも、この家で教えてもらった。
彼らも熱心なクリスチャンで、食膳の祈りはいつもおとうさんの役割だった。
「主よ、アキコをこの家に導いてくださって、ありがとうございます」と毎回言われるたびにどんな顔をして良いのかわからず、神妙に下を向いていた。
押しつけがましくない人たちだったが、やはり信仰の話は出る。そのたびに「まだクリスチャンではないんです」と答えた。「まだ」というのは社交辞令だったが、「アキコも早く神の子になれるよう、祈ってあげましょう」と言われると、何か相手をだましているようで、申し訳ない気持ちになった。
タミーのご両親には本当にお世話になったけれど、でもやはりここは自分がいる場所ではない、という気がした。
「都会には悪が集まる」
結局ノースカロライナの高校は、1年と1学期で転校した。初年が終わると夏休みに日本に帰国し、ニューヨーク州ポーキプシー市にある高校に転校を決めた。9月の新学期には間に合わなかったので、1月編入の手続きをすませて、その秋はいったんノースカロライナの高校へ戻った。
ニューヨークの高校に転校することを告白すると、同級生たちの猛反対にあった。
「アキコがニューヨークなんか、気に入るわけはないわ」
即座にそう口にしたのは、サウスカロライナ州から来ていたレベッカだった。
「私、行ったことあるけれど、汚くて、うるさくて、クレイジーな街よ」
レベッカはそう言って、顔をしかめた。
「でも高校はニューヨーク市内じゃないから。気に入らなければ戻ってくるし」
そう言いながらも、自分はおそらくここに戻ってくることはないだろうと思っていた。
ニューヨークに行くの。良いなあ、と言った人は誰もいなかった。
サザンパプティストに限らず、バイブルベルトと呼ばれる区域に住む保守派クリスチャンの多くは田舎こそが神の家に相応しく、都会は悪が集まるところ、と信じている。
11月の大統領選では、同じ州の中でも都市部ほどリベラルな民主党支持者が多く、人口密度の低い田舎は保守派の共和党支持者が多いことが、明確になった。その背景には、こうした大都市を悪とする宗教の教えの影響もある。