このほど東京駅の保存・復原工事が完了した。2014年の開業100年を前に、約5年半の工事期間を経て創建当時の姿を現した赤レンガ駅舎の東京駅。
東京駅はいかにして誕生したのかを多数の写真・図版資料とともに考察した、小社刊『東京駅はこうして誕生した』(2007年)の著者・林章氏に、東京駅の今と昔について伺った。
――完成した東京駅について感想をお聞かせ下さい。
林章氏(以下、林氏):まず、三階建てという“低さ”にもかかわらず、もの凄い重量感、壮大感、重厚長大という表現がそのまま形になったようですよね。創建当時、横綱の土俵入りのようと称えられた、まさにそのような姿で、改めて威容というか当時の人びとの驚きを実感できたと思いました。
現代では、建築物というものはより軽快に、街に溶け込むようにつくる志向がありますが、東京駅を見ると、かつては逆の志向であったことがわかります。観る者を圧倒するような存在感ですよね。でも威圧的ではない。例えば復原工事前の戦後すぐに補修された部分は粗い仕上げのところもあったのですが、レンガの積み方やレンガとレンガを繋ぐ白い漆喰の覆輪目地のふくらみなど、今回の復原工事の丁寧な仕事ぶりを目の当たりにして、建物に人間の体温を感じました。
――そもそも本書執筆のきっかけはどのようなところにあったのでしょうか。
林氏:私は建築物を通じて都市の形成過程について考察・執筆活動を行なっているのですが、東京駅というのは、東京という都市を決定づけた重要なモニュメントだと考えています。
そのモニュメントである東京駅が持つ機能を、単に「昔は立派なものを作ったんだね」というような回顧的ではなく、現代においてしっかりと認識して再評価したい、という思いがあります。
東京駅は、計画当初から開業直前まで「東京停車場」あるいは「中央停車場」という名称でした。日本(東京)の中央という位置づけを駅名に求めていた様子がわかります。
“東京”と言ってもごく広い範囲を示していたわけですが、東京駅が出来たことにより、この三菱ヶ原、一丁倫敦(ろんどん)と通称されたこの地域一帯が現代まで続くビジネスセンターとして決定づけられたわけです。
当時ヨーロッパの大都市の主要駅は線路が終点で行止りになるターミナル駅方式が主流でしたが、例のないパス・スルー(通過)方式の東京駅が出来たことにより、それまで空白だった上野~新橋(汐留)が縦貫し、東海道線と東北線が繋がり、中央線、山手線が出来てさらに繋がり、やがて日本中に鉄道網が展開されることが可能になりました。