2024年4月19日(金)

ウェッジ新刊インタビュー

2012年10月12日

 また日本橋拠点の水運から、西側に位置する東京駅を軸とした陸運(鉄道)への転換となり、都市の形成過程にも重要な出来事となったことも忘れてはならないでしょう。パス・スルー型鉄道網の東京駅がなかったら、東京はもちろん、現在の日本の発展はまた大きく違ったものになっていたと考えられるのです。

――東京駅が作られた時代背景との関係はどうでしょう。

林章氏 (撮影:ウェッジ書籍部)

林氏:東京駅の誕生は日露戦争抜きにしては考えられません。アジアの小国日本は西欧列強さえ畏れる大国ロシアに勝利したことで、その存在を世界に堂々とアピールする絶好の機会を得ました。そんな日本の意気込みを示すモニュメントとしての姿が求められたし、それは国民全体の期待でもありました。

 時折東京駅が“大正建築の華”などと称される記事を目にしますが、計画自体は明治20年代から始まっていますし、私自身は“明治最後の建築”だと思っています。駅舎本屋の工事は明治43(1910)年から始まりますが、工事2年目に明治天皇が崩御されるとは当時は誰も予想しなかったでしょう。

 明治維新以来、列強に伍する国を目指して邁進していた日本の、司馬遼太郎さん描くところの“坂の上の雲”をかたちにしたのがあの駅ではないかと思うのです。

――林さんは『塔とは何か』(小社2012年3月刊)でもそうですが、いつも「ものづくり」の技術や現場の人々について熱い視線を注いでいます。『東京駅は~』では、数々の貴重な写真・図版とあいまって、臨場感がありました。

林氏:建物や建設技術を見ていくと、実に様々な事がわかってきます。東京駅は、何と言っても基礎の頑丈さが筆頭に挙げられるでしょう。誰もその後起こる関東大震災や戦災を予想したわけではありませんが、張壁式鉄骨煉瓦造と呼ばれる当時最先端の耐震構造で、日本の中央駅としてこの上なく頑丈なものが造られたことがわかります。

 関東大震災や第二次大戦末期の空襲でも外装部分は損傷したものの基礎はびくともしませんでした。深さ3.6mまで掘り下げられていた底地に縦横2尺(約60cm)間隔で直径20数cm、長さ6~7mの松丸太杭約1万本が打ち込まれ、その上に厚さ1mほど、レンガ約50万個が敷き詰められ、さらに厚さ2mほどのコンクリートが打たれました。巨大な岩盤のようです。そして初めて地表面に到達し、鉄骨が組み上げられました。当時の写真を見ると、駅舎の外郭線そのままに、向こう側を見通せないほどびっしりと建て込んでいます。そしてその上全体を、今日私たちが見るレンガが覆っているのです。当時も重量物を運ぶ蒸気クレーンはありましたが、鉄骨の組方は“重量鳶”(じゅうりょうとび)と呼ばれる専門の職人が時に20mもの長梯子を使って活躍しました。

鉄骨架構工事中の東京駅。 明治44(1911)年7月。『紀念写真帖』より。
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