同時進行で異常事態が発生
べトナム戦争に際し、「べトナム人民の大後方」と自らを位置付けた当時の中国は1965年から73年の間、「米帝国主義と闘うべトナム人民」のために、数百万丁の銃、数万門の大砲に加え、軍事施設建設、陣地構築、飛行場・鉄道・道路の修理と建設などを含む総額で16億ドルにも及ぶ軍事援助を行なったとされる。もちろん、軍事要員も。
一部に実戦部隊を派遣し、防空戦闘や掃海作業に当たらせていたようだ。派遣された非戦闘要員は総勢で10万人とも。だから、べトナム側が中国の支援を高く評価し感謝したとしても決して不思議ではない。
ところが中国共産党政権中枢では、同時進行で異常事態が発生していた。
1969年の第9回共産党全国大会で天下公認の毛沢東の後継者とされたはずの林彪と夫人らが乗った小型ジェット機が、1971年9月にモンゴル領内に墜落したのである。熾烈な権力闘争の果ての“不審死”と言えるだろう。
その2カ月後の1971年11月――北京の政権内部での動揺は激しかったはずだが――、ベトナム政府代表団が訪中した。一行の動静を詳細に綴った記録『中越両国人民牢不破的戦闘団結(中越両国人民の戦闘的団結は決して破れない)』(人民出版社 1971年)は、次のように伝える。
「我が国人民の偉大な指導者であり中国共産党中央委員会主席の毛沢東同志は、11月22日、べトナム労働党中央委員会政治局委員でヴェトナム民主共和国政府のファン・ヴァンドン同志と彼が率いるべトナム労働党とべトナム民主共和国政府代表団全員と会見し」た。
「会見は極めて友好的な雰囲気の中で行われ、〔中略〕毛主席は前に進み出て一行を迎え、反米闘争の前線からやってきた兄弟であるべトナム人民の友好の使者に熱烈なる歓迎の意を表した。その際、会場の中越両国の同志たちは高らかに拍手した。毛主席は自ら親しくベトナムの同志を手招きし、彼らと共に写真を撮影された」のである。
この時の共同声明は、「中国人民は、英雄的なべトナム人民がホー・チミン主席が遺した『米帝を駆逐し、傀儡政権を打倒せよ』と『我が国土に1人でも侵略者が踏みとどまっている限り、我々は戦いを継続しなければならない。その全てを追い出すのだ』との偉大な教えを固く守り、勝利に向かって前進し、米帝国主義者の侵略を徹底的に打ち破ると共に、南部の解放、北部の防衛、祖国の平和的な統一を実現することを深く信ずる」。
これに対し「べトナム側は、兄弟である中国人民が敬愛すべき毛沢東主席を頭とする光り輝く中国共産党の指導の下で光栄ある革命事業において極めて大きな成果を成就したことを最高度に讃えた」と記している。
ベトナムを讃えつつ、アメリカとも接近する
中国はべトナムにおける反米闘争を、べトナムは文化大革命を共に讃えあったことになる。
一方、べトナム労働党機関紙の社説(11月27日付)は、「中国人民の我が国の党と政府代表団に対する熱情溢れる対応は、ホー・チミン主席の説いた『同志に兄弟を重ねる』関係の現われであり、毛主席が語る『べトナム人民の堅固な後ろ盾』である7億中国人民の崇高な精神をものの見事に体現している」と、中国側の対応を絶賛した。
だが中越首脳会談4カ月前の1971年7月、キッシンジャー米国務長官は秘密裏に訪中し、ニクソン大統領訪中の段取りをつけていた。つまりべトナムが「同志に兄弟を重ねる」関係やら「べトナム人民の堅固な後ろ盾」やらと、共同声明を飾る歯の浮くような美辞麗句を検討していただろう頃には、米中両政府の実務者間ではニクソン訪中に向けての準備が着々と進んでいたことになる。どうやら知らぬはハノイばかりなり。いや、知っていて知らぬ素振りをしていたのか。