2024年11月22日(金)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2021年5月7日

ベトナムはソ連へと急傾斜

 かくてべトナム訪中団帰国から3カ月が過ぎた72年2月、ハノイにとっては憎んでも憎みきれない不倶戴天の敵である米帝国主義の頭目であるニクソン大統領が、大統領専用機で訪中したのである。周恩来首相はタラップから颯爽と降り立つニクソン大統領を満面の笑みで迎え、2人は固い握手を交わす。

 このシーンを見せつけられた「ファン・ヴァンドン同志」以下の「英雄的なべトナム人民」は臍を噛み、中国の背信行為を詰り、怨念を滾らせたに違いない。

 ワシントンを口汚く罵りながら1971年4月の名古屋における世界卓球選手権大会を舞台にした米中ピンポン外交を展開し、キッシンジャーの秘密訪中を経て1972年2月のニクソン訪中へと続く一連の北京の米接近の動きを背信行為と断罪し、「溺死寸前の強盗」である米帝国主義に「浮き輪を投げ与えるようなもの」と強く批判し、ハノイはソ連へと急傾斜していったのである。

 ソ連との友好関係を背景にしたべトナムは、1975年にカンボジアに生まれた親中・反越のポル・ポト政権を痛い目に合わせ、「国父」であるホー・チミン以来の宿願であるインドシナ連邦創設に向けてカンボジアに軍事侵攻した。

 べトナムの“暴挙”に怒り心頭の鄧小平は、ソ連とベトナムによる友好協力条約締結から1カ月もしない1979年2月、敢えて対越懲罰戦争へと突き進んだ。その結果、中国は一敗地に塗れてしまい面子を失う。だが転んでもタダでは起きない。中国はこの上なく貴重な“副産物”を得た。ソ連が動かない(動けない?)ことを知ったのだ。いわばソ連が「張り子のトラ」であることを見抜いたことで、その後の対外開放が加速され経済大国への道を進んだのではなかったか。

 この時期のべトナムに対する米中両国の姿勢が『キッシンジャー回想録 中国』(岩波書店 2012年)に、次のように綴られている。

 「米国はベトナムを中ソの陰謀の先兵と見なし、これに対抗した。中国は、米国がアジアを支配しようとしていると考え、これに打撃を与えるため、北ベトナムを支援した」。だが「中国と米国の双方とも誤っていた。北ベトナムは、ただ自国のことだけを考え戦った」。

 1975年のベトナム戦争勝利を経て共産主義政権によって南北ベトナムは統一され、翌1976年にベトナム労働党は現在の共産党に改名された。かくてベトナム共産党に率いられる統一されたベトナムは、戦略的脅威となって中国の前に立ちはだかることになる。

 ――中越両国の〝前非〟を悔いる素振りすら見せない応酬からして、外交とは国益(生存と矜持)を賭けた狐とタヌキの化かし合いであることが見て取れる。

 4月中旬の日米首脳会談を機に「台湾海峡の危機」がにわかに注視されるようになり、先ごろ発表された2021年度の我が『外交青書』でも「中国による現状変更の動き」に対する「強い懸念」が表明され、「尖閣周辺の中国海警鑑船の活動は国際法違反」と明記され、同時に「台湾は極めて重要なパートナー」と位置付けられたのである。

 このような日本の動きに対し、中国は「アメリカに巻き込まれるな」と先ずは牽制球を投げてきた。

 今後、日中関係は緊張の度を加えるはず。であればこそ、改めて中越両国が見せる〝図太い神経〟を学ぶ必要があるだろう。

  
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