2024年7月16日(火)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2021年12月30日

 山本がこの因果関係に目を覆っていたとは考えられない。また、海軍部内の統制については、海軍大臣として米内に代わり吉田善吾・及川古志郎が就任して在職した時期のことを考えれば、ここで語るまでもない状況であった。

日米開戦回避を追求した山本の資質

 日米間の対立が戦争にまで発展した理由が、国家の利害考量の結果としてであるならば、国家指導者の発言や行為による平和意思の伝達は、戦争防止のきわめて有効な手段であったといいうる。しかし、日米関係史・アメリカ外交史の分野における練達の研究家であるロジャー・ディングマンがかつて述べたように、当時の日本人は政治指導者も軍人も国民も、戦争が、米国内でかき立てられた自国への敵愾心からも起こりうるという認識を欠いていたように思われる。

 だが、軍縮会議予備交渉・日中戦争・三国同盟締結後の海軍部隊の統率というそれぞれの局面に当事者として直面した山本は、日本人の中では例外的にこの認識を持っており、それだけでなく日米対立(あるいは戦争)の回避のため、部内統制を重んじて越権行為とならないように行動した、おそらくただ一人の海軍軍人であったと、筆者は考える。ではその思考や行動の背後には、どのような彼の資質が存在したのだろうか。

 山本の伝記や関係者の回想において、かなりの程度共通して登場する評価がある。それは、「山本は雄弁ではなく寡黙であり、語り方も素朴であった」というものである。ただし、話されたその内容は率直であり、多くの示唆に富んだものであった、という。この率直さがおそらく、周囲や部下にとって大きな魅力であった所以であろう。

情勢の読みが深く、直観でとらえる

 山本が寡黙であったことについて、しばしばなされたのが、山本が越後長岡の生まれと育ちであったという出自からの説明である(たとえば、長岡中学の後輩であった半藤一利氏が山本に関して述べた数多くの論考には、そのような説明がたびたび登場する)。たしかにそのような面があることは筆者も否定しないが、山本がしばしば見せた洞察の深さを概観して見ると、現代において山本の資質として注目すべき点は、「直観の重視」ではないだろうか。

 山本が寡黙であり、かつ、鋭く深い洞察力を発揮し、そして果断な行動を行った根底には、すぐれた直観力に基づく状況判断の鋭さと正確さ、そこから得られた自信によるところが大きかったように思われる。寡黙な人間が、世の中の現実について知識や関心が乏しいという事例は稀ではないが、山本の場合はむしろ、きわだって的確な知識や判断の材料(これらはしばしば、堀悌吉や榎本重治らから得られたのであろう)を持っていたことによる自信があったからではなかろうか。

 常人よりもはるかに情勢の読みが深く、直感で事態をとらえることができる人間は、多くが判断と行動がつねに迅速である。そして、軍隊においてはその能力は、すぐれた戦闘指揮官に必要不可欠のものといえる。

教科書化された思考では、事態を解決できない

 最後に、山本が直観によって事態の本質を把えることを重視したときから、論理的な推論はしばしば、第二義的な役割のものとなったであろうことを指摘したい。山本は海軍兵学校に2番の成績で入校し、中高年になって以降も、航空や国際法の分野など、幅の広い勉強を怠ることはなかった、とはよく言われることである。また山本が、海軍軍人としては珍しく、学校教育(それも初等教育)に大きな関心を持っていたことは、長男の義正氏の回想によって知られている。


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