2024年12月9日(月)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2021年12月30日

 山本は、自身の子どもに青山の青南小学校に入学させるため、長年住み慣れた鎌倉から転居した。それは、親友の堀悌吉の子どもが通い、堀の親戚の下川兵次郎が校長をしていたからであったという。「(下川)先生は、小学校の教育を従来の文部省教育とは全く違うやり方でされた。人には各々個性、能力があり、その資質を最高に引き出してやり、その人に応じた幸と満足を与えることを教育の理想とした。個性を生かす教育を普通の公立の学校で行っていたのである。父は先生の教育理念に賛同して、この学校に入れてくれたものと思っている」(山本義正「わが父、山本五十六の思い出」『月刊歴史と旅』第390号(1998年)に収録より)。

 また義正氏は、山本が50歳を相当に過ぎて、ペスタロッチの岩波文庫を持っているのを見たことがあるという。山本が具体的にペスタロッチのどのような主張に共鳴したのかは判然としないが、両人の教育観・人間観には一致するものが大きかったに相違ない。

 筆者がこの2つの事例から考えることは、「直観を欠き、教科書化され固定化された思考の体系に基づいて出発した議論は、未経験の事態の一応の説明や理解は可能であるとしても、事態の解決にはそれほど寄与しない」と、山本はある時期から考えるようになったのではないか、ということである。

天才の素質と海軍教育

 山本が1930年代半ば以降に直面した国内外の現実は、過去の研究の成果の蓄積や単なる学習の深化では捉えられない複雑な様相を呈しており、数カ月あるいは1年先の情勢予測さえも、きわめて困難だったはずである。そのような未知の領域に対峙するにあたって、あらかじめ定まった前提のもとで論理的な推論にのみ頼ることがあれば、それは現実性を欠いた抽象論に陥るか、誤った方向を正解とみなしてしまうおそれが十分ある。山本がただ一人、一見論理的とは到底思われない真珠湾攻撃や、事務当局には予想もつかない人事案を構想し、実行に移そうとした背景として、彼のこのような資質や思考スタイルが存在したのではないだろうか。

 物事の筋道を、あらかじめ設けられた線としてとらえるのでなく、直観力によって現実を的確にとらえ、そのような点をもって線を構成する人物は、しばしば天才と評される。山本もあるいはその一人であったのではないか、と筆者は想像するが、かつての海軍兵学校や海軍大学校で展開されていた教育の内容が、そのような人物の資質を発展させうるものではなかったであろうことは、山本のたどった人生を一見すれば明らかである。

 山本が直面した数々の困難や、それにもかかわらず発揮しえた彼の叡智、そして太平洋戦争中盤のミッドウェー、ガダルカナル、ソロモンの各作戦の経過において露呈した彼の作戦構想の破綻や思考の限界、これらは、現代においてもなお、十分に研究するに値する重要なものであろう。

※「直観の重視」という説明については、筆者が現在勤務している学校法人根津育英会武蔵学園で、武蔵大学学長・高等学校中学校校長、そして学園長をおよそ半世紀前につとめ、1977年に逝去した正田建次郎氏の追悼文(武蔵大学の学長をつとめた浅羽二郎氏による執筆、『追想 正田建次郎先生』武蔵学園発行、1979年に収録)の内容に啓発されるところがきわめて大きかったことを付記しておく。

 
 『Wedge』2021年9月号で「真珠湾攻撃から80年 明日を拓く昭和史論」を特集しております。
 80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。
 特集はWedge Online Premiumにてご購入することができます。
Facebookでフォロー Xでフォロー メルマガに登録
▲「Wedge ONLINE」の新着記事などをお届けしています。

新着記事

»もっと見る