これまで山本五十六の海軍生活における大きな出来事について、1930年代半ばから40年にかけての時期を中心に、3回にわたり概観してきた。本稿ではそのまとめとして、(私的生活を除いた)海軍勤務における彼の言動の特徴と、その背景について考察してみたい。
米内光政海軍大臣の就任により統制を図る
まずこれまで見たとおり、山本の行動はその死まで日本海軍という組織の中でなされており、堀悌吉の予備役編入や日独伊三国同盟の締結、対米英開戦という事態にあっても、海軍を退くという選択は最後までなかった。また海軍次官時代の山本が目指したものとして、まず、37年はじめには米内光政(山本がかねてから、その識見人格を高く評価していた)を海軍大臣に据えることで海軍の統制の正常化を図ったことが挙げられる。
「山本は加藤寛治・末次信正の政治的な動きを、部内統制を破るものとしてつよく非難していた。この際、海軍の立て直しのためには、米内を海相にするしかないと考えていた」(米内と海兵同期であった八角三郎海軍中将の戦後回想、野村実『山本五十六再考』中公文庫、1996年に収録)。そして、「統制」の根幹をなしていたのは、日本海軍の伝統であった「政治に関与するものは海軍大臣一人であり、海軍軍人はその統制には必ず服する」という考えであったと想像される。
国際法に準じて正当性をアピールするも
部内統制とならんで山本が重視したものは、日本海軍(ひいては日本国家)の対外行動の正当性を国際社会にアピールすることを可能とさせるために、海軍士官への国際法教育を重視することであった。
当時の海軍省参事官・顧問であった榎本重治は、日中戦争が始まる直前の37年5月に『戦時国際法規綱要』を刊行し、同年7月に「空戦に関する標準」、9月には「爆撃に関する雑件」をそれぞれ起案して部内で発布、翌38年6月に『軍艦外務令解説』を刊行したが、これらはいずれも、次官であった山本の指示によるもので、刊行物の表題の文字はすべて山本の筆になるものであるという。
これらの試みはしかし、山本や榎本の意図した通りの結果をもたらしたとは言いがたい。ある海軍佐官OBは戦後、「山本元帥は国際法規を非常にシリアスに考えていた人で、海軍次官のとき榎本重治さんに命じて、これらを印刷して艦船部隊に配付している。しかし、国際法規は尊重しなければならない。という考えは必ずしも徹底せず、一般に非常にケアレス(不注意)に行っているようである」(戸髙一成編『証言録 海軍反省会10』PHP研究所、2017年。発言者は海兵50期、終戦時に海軍大佐であった寺崎隆治)と回想している。特に、日本海軍航空隊の中国都市への爆撃は、米国内での強い対日非難を呼び起こし、38年6月の米国による対日道義的輸出禁止措置の直接的な原因となったことが知られている。