視点を変えれば、現在の中国に顕著に現れている内政面での一層の強権化、外交面での頑ななまでの反米路線――敢えてチキン・レースとは言わないまでも――に、北京の最高権力者が企図する政治的な投機性が陰に陽に影響していると考えると、その先を辿れば、やはり「毛主席の遺志」に行き着くように思えてしまうのだ。
習近平政権が遂げた「告げる書」の実現
なぜ、そこまで「毛主席の遺志」にこだわるのか。66年の文革発動前後から中国の動向に関心を持ち続けている筆者としては、ここまで経済大国になり先端技術先進国になった現在でも、中国政治の根底に毛沢東の影を認めざるを得ないからである。
たとえば「南面して座す君主に対し臣下は北面して侍す」との中国古来の世界観を踏襲するかのように、北京のど真ん中に位置する天安門には、いまなお巨大な毛沢東像が南面して掲げられている。あれは首都の中心を飾る巨大なモニュメントではなく、“静かに君臨”する可視化された最高権力と見なすべきではないか。
「毛主席の遺志」の筆頭には「党の一元化指導を強化し、党の団結と統一を固く擁護し、党中央の周囲に緊密に団結する」との一項が記されているが、それは、昨年2月に習国家主席が党総書記として主催した「党史学習教育動員大会」において実現したと言えるだろう。この大会で、彼は党の全業績を自らに収斂させる力を確保する大前提である党史解釈権を手にしたのだ。
昨年3月の全人代(全国人民代表大会=国会)に臨んで習国家主席が「漢語の普及活動を真剣に進め、国の統一的な教材の使用を全面的に推進しなければならない」と語り、「中華民族の一層の一体化」を推進するために漢語(標準中国語)の普及を強く打ち出したが、それを「各族人民の大団結」の一環と見なすことは可能だ。
もちろん「各族人民の大団結」の実態が少数民族が営々と築いてきた豊かな固有文化の破壊に繋がり、圧倒的多数の漢族による「各族人民」に対する文化的ジェノサイドに通ずることであり、断固として許されない蛮行であることは敢えて指摘するまでもないことだが。
「鄧小平批判を深化させ」ることに関しては、昨年2月に開催された「華国鋒生誕100周年記念座談会」において、習近平政権の理論面の支柱される王滬寧中央政治局常務委員が党中央を代表して行った講話に色濃く見られる。華国鋒賞賛から華国鋒を失脚させた鄧小平への批判を読み取ることは可能だろう。
「ブルジョワ階級の法権を制限し、わが国プロレタリア階級の独裁をより前進させ」ることに関しては、一昨年秋の阿里巴巴集団(アリババグループ)総帥の馬雲(ジャック・マー)の〝失踪〟を機に見られるようになった巨大先端企業経営陣による経営の自主規制が、それに当たるだろう。独禁法をタテにした巨大IT関連企業への締め付け、企業活動への介入、芸能界への厳しい対応、教育面での統制強化などが、「わが国プロレタリア階級の独裁をより前進させ」ことに繋がると考えているのではないか。
先端技術の開発と利用、南シナ海の内海化、海軍力増強、宇宙空間における超野心的な試みの数々――衛星破壊、有人宇宙ステーション、月や火星の探査など――は、「毛主席の建軍路線を断固として執行し、軍隊建設を強化し、民兵建設を推し進め、戦備を増強し、警戒を高め、敢えて侵略を試みる一切の敵を殲滅する備えを常に怠らず」の具体化であり、かくして「わわれは断固として台湾を解放する」ことを志向していると見なすことは可能だろう。