米国を〝利用〟していった中国
モスクワから帰国後、毛沢東はフルシチョフに向けて放った〝国際公約〟を実現させるため、急進的な社会主義化への道を猛進(盲進?)する。「大躍進政策」を掲げ、「超英赶美(英国を追い越し、米国に追い付き追い越せ)」のスローガンによって国民を叱咤激励した。フルシチョフのソ連より、毛沢東の中国が先に実り豊かな社会主義社会を実現させ米国を凌駕してみせる、とばかりに。
だが現実無視の無謀な計画が国民を飢餓地獄に追い込み、結果的に社会全体を混乱・疲弊させてしまったことは疑うべくもなかった。
大躍進政策の失敗が共産党幹部間に軋轢を生み、やがて文化大革命(1966年~74年)を誘発し、「大後退の10年」を経た後、鄧小平の大号令によって78年末に対外開放に踏み切り、経済大国への道を導く。いまや習近平政権の手で毛沢東の悲願であった「赶美」の道を突き進む。
鄧小平の対外開放の伏線が72年のニクソン訪中を機とする米中接近にあり、習政権が掲げる「中華民族の偉大な復興」「中国の夢」を「赶美」の別の表現と見なすなら、中国は敵である米国の力を巧みに〝利用〟することで現在の国力を持ち得たと言っても過言ではない。いつしか中国は米国から「帝国主義」の4文字を取り外していた。結果として米国は、お人好しにも自らを滅ぼそうと画策する敵を大きく育ててしまったことになる。
2度の屈辱を味わったソ連
一方のフルシチョフは、米国の喉元に位置するキューバに秘密裏に核ミサイルを配備し、米国掣肘(せいちゅう)を狙った。だが当時のケネディー大統領の決然たる対応を前に、引き下がらざるを得なかった。これが62年に米ソ全面戦争一歩手前まで進んだとされる「キューバ危機」の真相だろう。
ケネディーとの戦いに敗北したフルシチョフを襲って政権を掌握したブレジネフは、対米強硬路線をゴリ押しする。だが、冷戦下での軍拡競争の重圧に耐えられずソ連は崩壊していった。ソ連にとっては「キューバ危機」に次ぐ2度目の屈辱である。屈辱は、いつかは晴らさなければならない。
中国とは異なり、ソ連は米国と鋭く対立することで消耗戦を余儀なくされ、敗北への道を辿ったわけだ。ソ連の残骸から出発したプーチン大統領が、いまウクライナを踏み台にして米国に牙を向ける。ここから「キューバ危機」の雪辱戦を連想することは荒唐無稽に過ぎるだろうか。
今回のウクライナ侵攻の真意・狙いに関しさまざまな見解が聞かれるが、極論するなら、プーチン大統領の一連の振る舞いは「偉大なる祖国ロシアの再興」という悲願によって突き動かされている。それがソ連以来の、形を変えた米国への挑戦に違いない。
習国家主席は「中華民族の偉大な復興」「中国の夢」を獅子吼(ししく)し、プーチン大統領は「偉大なる祖国ロシアの再興」に取り憑かれる――。2人の国家最高指導者が掲げる国家目標の背後に、なにやら1950年代末期のアメリカ帝国主義を間に挟んだ毛沢東とフルシチョフの対立関係が痛感される。
こう見なすならプーチン大統領にとっての敵はバイデン大統領ではあるが、習国家主席も敵であるはずだ。今回の冬期北京五輪開会式参加を機に訪中したプーチン大統領に向かって、習国家主席が冬季五輪開催中のウクライナ侵攻延期を要請したと伝えられている。この報道が正しいなら、習国家主席の要請を蹴ってまでウクライナ侵攻を急いだ背景には、やはり〝もう1人の敵〟に対する牽制の狙いがあった。
冬期五輪を大成功に終わらせて習国家主席の内外における声望を高めさせてはならない。この辺りの心理状況は、キューバへの核ミサイル配備を急いだフルシチョフのそれに通ずるようにも思える。
習近平が立場を明確にしないワケ
もちろんウクライナにおける戦況がどのように推移するかは全く不明であり、停戦交渉の行方など軽々な判断は差し控えたい。だが米国を中心とする欧米諸国、さらに日本などが打ち出す経済制裁が奏功せず、ウクライナ国内の戦闘においてロシア軍の攻勢が続き、ロシア主導で停戦が進んだとしたなら、プーチン大統領は米国との戦いにおいて習国家主席に対し優位な立場を誇示できる。小麦に加え本来はドイツを主軸たる取引相手とするヨーロッパ向けの天然ガスを大量に買い込み、中国がロシア経済の苦境を支援しようとも、である。
だが支援は同時に相手の生命線を抑えることにも通ずるわけだから、逆に習国家主席は支援をテコにプーチン大統領を牽制することも出来るはずだ。