思い出される東宝劇場の過去
日比谷に「東京宝塚劇場(東宝劇場)」が建設される。宝塚歌劇団の東京の本拠地になる。舞台の映像のなかに、戦後に俳優に転じた団員の姿がみえる。そして、敗戦。宝塚劇場は、進駐軍によって接収せれて、米兵たちに娯楽を与える「アーニイ・パイル劇場」と命名された。
ここでは、宝塚歌劇団の創始者にして、阪急の創業者でもある、小林一三氏のエッセイを少々長くなるが、ご紹介したい。いうまでもなく、宝塚劇場の所有者ともいえる。この劇場に対する小林氏の心境が見事につづられた名文である。
タイトルは「アーニイ・パイルの前に立ちて」(原文を読みやすいように改行と句読点、漢語の意味をほどこすとともに、一部を省略した)
「『アーニイ・パイル』は、太平洋戦争に参加したる米国の一新聞の青年記者の姓名である。彼は不幸にして、海戦のさ中に戦死した。然し、彼の綴れる通信記事は、全米を風靡(ふうび=広くなびかせること)して好評を博したのである。
米国各新聞社から派遣せられた数百名の記者によって、送られたる通信記事の内容は、その冒険を競い、その敏捷(びんしょう)を争い、その独自性をほこり、或いは又美辞麗句、奇抜であり、意表に出る等々千差万別の裡(り=一定のなか)にあって、彼は終始一貫、兵士と苦楽を共にしつつその兵士の行動、その生活、その信念、あるがままの本質と、真の姿をあらゆる角度から書いて、故国の同胞父兄に報告したのである」
「米国内に於ける出征軍人の消息を待ちこがるる大多数の家族を満足せしめたる、青年記者アーニイ・パイルの通信は、米国大多数の出征家族をして感謝せしめ、礼賛せしめたのである。流石(さすが)に民主主義の本家である米国としては、最大多数によって感謝せられたる代表的新聞記者としてのアーニイ・パイルを表彰すべく、この劇場に命名したることは、わが国のごとき一将功名なって万骨枯るるを怪しまざる官尊民卑の風習に対して、善い教訓であると思うのである」
このミニドキュメンタリーを観て、もうひとつのことを思い出した。俳優・池部良(1918~2010年)のデビュー作の映画「闘魚」(1941年)である。
そこには、青年・池部が知人の女性と銀座のパーラーでお茶を飲むシーンがある。洋装の女性がかぶっている大きなつばのある帽子も印象的だ。おそらくセットと思われるが、戦前が暗黒の時代である、という思い込みと、終戦の焼け野原の映像を払しょくする美しい光景があった。