2022年8月14日(日)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2022年6月13日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

 バイデン政権の〝露払い〟を演ずるに急な余り、ASEAN諸国との信頼関係構築を後回しするなら、日本がASEAN諸国から「地域のパートナー」としての信頼を失う可能性すら考えられないわけではない。

 かつて筆者は、岸田首相が率いる宏池会の元領袖である宮沢喜一元首相にタイを中心にしたASEAN事情を話したことがある。首相就任を前にした当時の彼の発言の端々から「ASEANは日本に随伴して当然」との考えが伺えた。まさか岸田首相が遠い昔の宮沢元首相が抱いていたASEAN観を踏襲しているとは思いたくはない。だが、であればこそ昨年の自民党総裁選の際に胸を張って高く掲げていた「岸田ノート」にどのようなASEAN像が記されているのか。大いなる関心を抱かざるを得ない。

〝出たとこ勝負〟を繰り返す日本のASEAN外交

 いったいわが国歴代政権は、真っ当な形をした整合性を備えたASEAN外交を展開してきただろうか。中国と東南アジアの関係を文革当時から半世紀余に亘って見続けてきた筆者からすれば、福田赳夫(父)政権を除き、やはり「否」と言うしかない。

 福田(父)政権は1977年に「福田ドクトリン」を打ち出し、ASEAN諸国とは対等なパートナーとして「心と心の触れあう信頼関係」を掲げ、「ASEAN諸国の平和と繁栄に寄与する」ことに努めた。ここで忘れてならないのは、当時の中国が置かれた内外環境である。

 あの頃の中国は内政面では文革後遺症に苦しむ混乱期にあり、外交面では対外閉鎖を継続していた。それゆえに中国にはASEAN諸国に関心を払う余裕などなかった。だから、この地域に深い関わりを持つ域外国と言えば、現実的には日本(その背後の米国)しかなく、それゆえに「福田ドクトリン」は有効に機能したことになる。

 だが78年末に中国が内政の重点を政治から経済へと大転換させると共に対外開放に踏み切ったことで、中国とASEAN諸国との関係は激変してしまった。

 歴史的にも〝熱帯への進軍〟という体質を持つ中国が新しく強力なプレーヤーとして参入することで、東南アジアをめぐる国際社会の政治・経済ゲームは中国主導の新しいルールによって否応なく律せられることになったのだ。

 にもかかわらず、歴代の日本政府が新しい国際環境に応じるような新しいASEAN政策を示したフシは見られなかった。極論するなら相も変わらずASEAN諸国を下位に置いたままであり、酷評するならASEAN外交は〝出たとこ勝負〟を繰り返すばかり。

ASEANへの「好感度」は中国に抜かされる

 たしかに80年代末から90年代初にかけ、カンボジア和平交渉に日本は大きな役割を果たした。わが国ASEAN外交における輝かしい成果だ。だが、その背後にはタイのチャーチャーイ政権(当時)を支え、国際的にも強力な交渉能力を持ったブレーン集団(「ピサヌローク邸グループ」)との緊密な連携があったことを忘れてはならない。当時の一連の多国間交渉の過程で得られた外交的実績は、その後の不作為のなかで〝立ち枯れ〟させてしまったようだ。

 民主党政権(2009~12年)が強力に打ち出したベトナムへの新幹線輸出交渉にしても、日本側の思いつきの域を出るものではなく、最初から失敗は約束されていたようなものであった。

 ミャンマーでは11年にタン・シュエ独裁政権から改革派とされたテイン・セインに政権が移ると、政財界のみならずメディアまでもが「ミャンマーはアジアに残された最後の成長センター」との〝キャッチ・コピー〟に煽られミャンマー詣でに精を出した。だが、その後に誕生したアウンサン・スーチー政権が国政の舵取りに苦慮するようになると、民族と宗教がモザイク状に絡み合った国情に心を砕くことなく、「民主化」を唯一無二の価値観にした欧米の批判――民主化への「口先外交」――に唱和するばかり。ここでも〝出たとこ勝負〟から抜け出るものではなかった。

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