金メダルへ敷かれたレール
『人育て術』では、高橋が98年3月の名古屋国際女子マラソンで初優勝した時点において、すでに小出の頭には「シドニー五輪での金メダル」までのレールが敷かれていた。
<私の中では、7年後のオリンピックが既にスタートを切っていたのである。2000年はシドニー五輪だが、その次の2004年五輪はアテネでの開催が決まっている。鈴木の優勝(97年世界選手権=筆者註)で、夏のアテネのマラソンというものはある程度つかめた。これは大きな財産である。しかし、それだけでは満足しない。実は、この大会の五千㍍で13位となった高橋尚子をマラソンコースの試走に駆り立てていた。下りの得意な高橋にとっては、絶好のコース。高橋のメダル獲りのための7年後への布石だった。98年3月8日の名古屋国際女子マラソンで日本最高をマークした高橋には、2000年シドニー五輪での金メダルの手ごたえが感じられるようになった>(『人育て術』230頁)
シドニー五輪のマラソンコースは、高低差が約70メートルもある。スタートから約1.5キロメートルで急な下り坂があり、すぐに上りに変わる。五輪史上最も過酷な難コースといわれた。
それを克服するためには、常識的な練習では勝ちきれない。『君ならできる』は、五輪本番まで4カ月を切った段階で、小出と高橋が挑んだ常識外れの練習の様子が書かれている。
<高橋は、5月からアメリカ・コロラド州のボルダーで、高地トレーニングをつづけてきた。合宿の本拠地はボルダーに構え、そこから車で約40分のネダーランドと、車で1時間半の標高2800から3000㍍のウィンターパークで数回合宿を行った。標高3000㍍に近くなると、空気が希薄だから、マラソンランナーはつねに酸欠状態で走り続けなければならない。高地トレーニングは、ランナーの酸素摂取量を少なくし、より少ない酸素で効率的に走れるようになることを目的としている。その上、ロッキー山脈の厳しいアップダウンの山中を走るのだから、走る者にとっては「苦しい」というより、拷問状態に近い。>(同書12頁)
そんな過酷なトレーニングを積んだ高橋だからこそ、シドニー五輪で金メダルが獲得できた。非常識とも思える練習を課す指導者と、それを信じてついて行った高橋。絶妙な組み合わせが最高の結果に結びついたのだろう。
女子なら「金」を狙える
小出と高橋の「成功物語」はさまざま語られているので、本稿では視点を変え、小出がなぜ、女子長距離の指導に心血を注ぐようになったのか、著書から読み取っていきたい。そこには「戦略家」としての小出の読みの鋭さが表れている。
千葉の農家の長男として生まれ、「やがては農家の後を継ぐ」と漠然と考えていた小出が、さまざまな指導者に恵まれ、教員として高校生に陸上競技を指導するようになった。教員生活は23年に及び、その間、多くのインターハイチャンピオンを育てた。
市立船橋高校では1986年の第37回全国高校駅伝(男子)で都大路を制した。その優勝を手土産に、小出は教員生活にピリオドを打ち、88年から女子陸上部を新設したリクルートの監督に就任する。
<私には当時、不思議でならないことがあった。オリンピックの陸上で、日本はどうしてメダルを獲れないのだろう――ということだった。メダルを獲れないはずはない。長距離、とりわけマラソンなら金メダルが獲れるはずだ。マラソンは、素質よりも努力が大きくモノをいう――と思うようになっていた私は、やりようによっては金メダリストは育てられると確信するようになっていた。女性の時代が必ず来ると予測し、それに備えてきた私の目論見も当たっていて、ここは女子の長距離、究極は女子のマラソンで金メダルを狙おうという夢が大きくふくらんできたのだった。>(『人育て術』227頁)
五輪で女子の長距離種目は、1928年のアムステルダム五輪で、日本の人見絹江ら800メートルに出場した選手がゴール後、次々と倒れて以来、「危険すぎる」として長らく五輪種目から外されていた。800メートルは1960年ローマ大会から復活し、1500メートルが72年ミュンヘン五輪で採用されるなど徐々に女子種目の距離が延び、84年のロス五輪から女子マラソンも採用された。