板垣退助の名は著名だが、その生涯についてはほとんど知られていない。一身にして五生を生きたといわれるが、江戸後期から大正半ばまでの非常に激しい変転の中を生きており、全体像をとらえることは難しいのである。本書が研究者による伝記としてはほぼ半世紀ぶりの出版であることはその証左ともいえよう。それだけに本書の価値は非常に高い。
光った軍人としての才覚
板垣は土佐の上士の家に生まれており、下級武士が多かった尊王攘夷派の中ではかなり例外であった。坂本龍馬をめぐる幕末土佐の動きは司馬遼太郎の小説などでよく知られているが、何度も罰せられたりしながら結局板垣は土佐の官軍の中心人物となり戊辰戦争を戦い抜く。
板垣の祖先は甲斐の武田信玄の武将と言われており、甲州攻めの戦いにおいては乾という姓を板垣と改め戦局を有利に導いた。板垣には軍人としての才能があった。
その後、会津若松を攻め落とすが、この時会津では藩士のみが戦って庶民は手助けをしなかったことが、自由民権運動に目覚めた原因だと板垣は後年語っている。が、著者はこれを自由民権運動を始めてから思い出された洞察と見ている。
明治新政府において板垣は活躍するが、「明治6年の政変」において西郷隆盛らとともに下野する。そして「民撰議院設立建白書」を左院に提出し、日本の議会制民主主義の先駆者としてその名は不滅のものとなる。
運をも味方につけ
しかし、佐賀の乱はじめ反政府武力反乱は相次ぎ、西南戦争に至る。この間、板垣の立場は極めて微妙であり、武力による行動の準備を進めることもあったが、結局それには至らなかった。本書にはこのプロセスが細かく叙述されておりスリリングである。板垣に近かった挙兵計画の首謀者、林有造は禁獄10年となるが、板垣は証拠が見出せなかったことから逮捕されなかった。和歌山の陸奥宗光は禁獄5年の判決を受けたのであるからラッキーであったとも見うる。