近現代史への関心は高く書物も多いが、首を傾げるものも少なくない。相当ひどいものが横行していると言っても過言ではない有様である。この連載「近現代史ブックレビュー」はこうした状況を打破するために始められた、近現代史の正確な理解を目指す読者のためのコラムである。
幕末維新期の暗殺について知りたい時に入手しやすく便利な書である。桜田門外の変はじめ多くの暗殺事件が扱われている。暗殺は言うまでもなく否定さるべきものだが、その政治・社会に与える影響が極めて大きいことは現下にわれわれが見ている通りである。それだけに深く理解しておく必要があり、中でも日本史上最も暗殺が頻発したこの時期のことはよく知っておくべきであろう。
反政府の不満を
一身に受けた大久保利通
扱われている暗殺は極めて多いので、ここでは後の時代の暗殺との関連で重要な大久保利通の暗殺事件、紀尾井坂の変について見ておきたい。
1878年(明治11年)5月14日朝、登庁中の内務卿・大久保利通は麹町紀尾井町で、石川県士族島田一郎ら6人に殺害された。大久保は全身に16カ所の傷を受けており、そのうちの半数は頭部に対するもので、事件直後に駆けつけて大久保の遺体を見た前島密は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と語っている。
中心的存在は島田一郎で、島田は加賀藩の下級武士の子として生まれ、維新後軍人をしていたが征韓論に共鳴、「明治六年政変」で西郷隆盛が下野した事態に憤激。西南戦争に呼応し挙兵を試みたが間に合わず断念し、暗殺に切り替えたのだった。事件後に自首し、同年7月27日、他の5人と共に謀殺罪により斬首刑に処せられた。
島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状は、有司専制の罪として「民権を抑圧し以て政事を私す」など5つの罪を挙げている。佐賀の乱に始まり、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争と続いた一連の争乱の反政府側の不満を大久保は一身に受けていたのであった。
大久保の評価については、近年、その全体像を見直した好著『大久保利通』(瀧井一博、新潮選書)が出ているので見られたい。
暗殺首謀者たちの
評価の変遷
さて、その後、島田らはどう評価されることになったか。
大正時代半ばの1917年、第13回総選挙に石川県1区から立候補した憲政会の永井柳太郎は、薩長藩閥・有司専制打倒を唱え、金沢の島田らの墓に参拝、島田らが藩閥の権勢に屈しなかったのは石川県人の誇りだとした。
これに対し、『北国新聞』は「刺客」を「讃美し、称揚」するのかと永井を攻撃、選挙結果は政友会・中橋徳五郎が203票の僅差で勝利、永井は惜敗した。この時はまだ評価は五分五分のところがあったことがわかる。
昭和初期の27年、東京と金沢で島田らの50年祭が挙行された。東京、谷中墓地では永井柳太郎らが参列、金沢では発起人81人、遺族・遺児らが参列し、「事績を追慕」する明治志士敬賛会の設立、毎年の墓前祭・講演会開催が決められた。28年の51年墓前祭では、生き残りの同志、松田秀彦が愛刀を墓前に捧げ、『北国新聞』も「明治の志士島田一良」と書いている。
日中戦争の始まった37年、浅草本願寺に「憲政碑」が設立された。政友会・胎中楠右衛門による。胎中は、政党内閣崩壊から5年の時代、憲政再建のため第1回地方官会議が開かれた浅草本願寺にそれを建立した。2272人が憲政功労者として合祀されたが、中に伊藤博文・大隈重信らとともに島田の名が刻まれていた。こうして、大久保利通の暗殺者は憲政貢献者とも見なされるにようになったのである。
本書には井伊直弼やそれを殺害した水戸浪士たちの評価をめぐる興味深い変遷が書かれているが、それらと合わせて読者は暗殺とその評価についてつくづくと考えさせられよう。
細かい点で疑問がないではないが、現在類書がなく、以上の例のように暗殺を考える上でさまざまな示唆に富む書である。
便利で安価な暮らしを求め続ける日本――。これは農業も例外ではない。大量生産・大量消費モデルに支えられ、食べ物はまるで工業製品と化した。このままでは食の均質化はますます進み、価値あるものを生み出す人を〝食べ支える〟ことは困難になる。しかし、農業が持つ新しい価値を生み出そうと奮闘する人は、企業は、確かに存在する。日本の農業をさらに発展させるためには、農業の「多様性」が必要だ。