2024年12月23日(月)

近現代史ブックレビュー

2022年10月16日

 近現代史への関心は高く書物も多いが、首を傾げるものも少なくない。相当ひどいものが横行していると言っても過言ではない有様である。この連載はこうした状況を打破するために始められた、近現代史の正確な理解を目指す読者のためのコラムである。
甘粕大尉
角田房子
中公文庫  935円(税込/電子書籍)

 近代日本の暗殺の中でも特異なのが、関東大震災時に起きた甘粕(大杉栄殺害)事件である。それは、反体制運動のリーダーが暗殺された数少ないケースだからである。この事件については、犯人の甘粕正彦憲兵大尉と軍の上層部とのつながり如何など問題が多いが、私はむしろ今日的に最大の問題は、大杉ら3人を殺害して10年という甘粕の量刑の軽さにあると思う。

 それを解明するためには甘粕について詳しく知らねばいけないが、大杉に焦点が当たることが多かった中、はじめて甘粕について詳しく調べて書いたのが本書なのである。

 甘粕の人間像などについては直接本書に当たってほしいが、ここでは軽すぎる量刑のことについて述べたい。この事件はまれに見る弁護側による強い同情的世論の喚起に成功したポピュリズム的事件だったのである。

 何よりもその証左として挙げられるのは多数の甘粕減刑嘆願書であり、約65万人とも言われ、裁判担当者が無視できない数字であった。そうすると、こうした世論はどう喚起されたのかということになるが、甘粕が犯行へ駆り立てられたとし、甘粕弁護側も強調した「大逆事件」の存在が大きい。

 甘粕は、裁判で、事件前の8月に、大杉が(後に大逆犯として起訴される)朴烈(パク・ ヨル)に会い、大逆事件を企てた情報を得たと強調しているのである。朴烈事件についての最初期の報道は、朝日新聞1923年10月10日号と見られるが、10月8日に始まる裁判で弁護側はこの点を特に重視し、甘粕がこの犯罪を熟知していたため犯行に及んだという趣旨の言説を繰り返している。朴烈への判事の取り調べが開始されるのが10月24日、大逆罪起訴が25年7月17日なので、これは極めて早い時期の情報となる。

 大杉がこの事件にどのように関与していたのかは不明で、8月20日、根津神社の貸席で大杉は後に起訴される金重漢ら事件関係者に会っているが、これらは類推にすぎず明らかにオーバーな表現である。だが、聞く方はそこまでの判断力を持たず、皇室に関することは神経質になりやすいので甘粕弁護に非常に高い効果を発揮したと思われるのである。また、朴烈事件は全くの虚構ではないので(『続・現代史資料3アナーキズム』〈みすず書房〉参照)治安当局側に乗ぜられやすかったともいえよう。

甘粕に有利に働いた行為

 次に、甘粕に有利に働き同情的世論を得やすくしたものとしてアナキスト側の暴力・テロ行為がある。

 23年10月4日、甘粕の弟、五郎(中学生)は三重県松阪の路上で、通学列車に乗ろうとしたところを、背後から男に短刀で刺されかけた。松阪署の刑事が、犯人を抱き止めたので五郎は難を逃れたが、犯人はギロチン社の田中勇之進であった。

 ギロチン社は、大杉の知り合い古田大次郎、中浜哲らをメンバーとした結社で、次に10月16日、古田らは資金獲得のため第十五銀行を襲い、銀行員を刺殺する。小坂事件である。続いて、翌年9月、古田は大杉の同志、和田久太郎・村木源次郎とともに戒厳司令官だった福田雅太郎大将狙撃事件を起こす。福田大将狙撃事件は翌年のことだが、甘粕の弟、五郎襲撃と銀行員刺殺の小坂事件は裁判前後である。これらは、古田らからすれば「大杉虐殺」への当然の報復行為なのだろうが、甘粕に有利な世論形成に大きく影響を与えたと見られるのである。

 以上、本書に刺激を受けつつ、この事件は世論が判決を大きく左右するポピュリズム時代の到来を告げる事件だったという視点を、私は新たに提起することとしたいと思う。

 
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