しかし、ラッキーとも見られる原因は、板垣が軍人であっただけに戦況を見ながらの判断に過ちをしなかったことにあるという。そして、結局、武力行使をしなかった高知県から戦死者は出ず、多くの自由民権運動家を生み出すことになる。以後、板垣は日本における自由民権運動の中心人物として全国を回り、あの岐阜遭難事件も起きたのだった。
その後も板垣は自由民権運動・議会政治の発達のために活躍する。とくに第1回の議会では、野党は最後は予算案成立にまとまるが、その背後には東洋で最初の議会政治を失敗させてはならないとする板垣の配慮があった。
明治維新から自由民権運動へ
板垣は洋行問題・授爵問題で評価に傷がつくこともあったが、1898年には大隈重信とともに内務大臣として隈板内閣を組閣する。しかし、この内閣は短命に終わり、板垣は比較的早く政界を引退する。
引退後、板垣はさまざまな社会政策・社会改良運動に力を入れており、またその平等主義からくる一代華族論に基づき一代で華族であることをやめている。
天皇の下に日本国民は全て平等だという一君万民主義は、明治維新から自由民権運動へとある意味板垣が担ったものといえるが、これは北一輝を軸とする昭和維新運動にもつながることになり複雑であった。
板垣は伊藤博文・大隈重信と比べると、さまざまな多くの利害を代表する代議士を組織して、彼らの要求に応えながら党勢を拡大させていくという手腕や政策に欠けていたと著者は指摘しているが、当たっているだろう。しかし、その自由と民主主義の精神は不滅であり、議会政治の危機の中、それを受け継ぐために多くの人にぜひ読まれてほしい著作である。
「革新」や「新機軸」と訳されるイノベーションを創出するには、前例踏襲や固定観念に捉われない姿勢が重要だ。時には慣例からの逸脱や成功確率が低いことに挑戦する勇気も必要だろう。
平等主義や横並び意識の強い日本社会ではしばしば、そんな人材を〝尖った人〟と表現する。この言葉には、均一的で協調性がある人材を礼賛すると同時に、それに当てはまらない人材を揶揄する響きが感じられるが、果たしてそうなのか。
〝尖る〟という表現を、「得意」分野を持つことと、「特異」な発想ができることという〝トクイ〟に換言すれば、そうした人材を適材適所に配置し、トクイを生かすことこそが、イノベーションを生む原動力であり、今の日本に求められていることではないか。