今も異国情緒が漂う神戸。「旧居留地」と呼ばれるオフィス街の一角に「100BAN 高砂ビル」はある。このビルが建つ地番が「100番」だったことに由来する。築73年のレトロなムードが漂う頑丈な建物だ。
昼休みになると、周囲の街路に並ぶキッチンカーで買い入れたお弁当を手にしたビジネスパーソンたちが、このビルに入ってゆく。2階にあるフリースペースでお弁当を食べるためだ。設置されている自動販売機で飲み物を1つ買えば、誰でも自由に使える。街のちょっとした憩いの場になっている。
「このビルが街に潤いを与える場になってほしいと思っています。神戸の人たちのおかげで今日までやってこられたので、ちょっとした恩返しです」
このビルを所有する髙砂商行の李啓洋社長はそう語る。
台湾から神戸へ帽子製造を行う
髙砂商行は李さんの叔父の李義招氏と父親の李献庚氏が1926年(大正15年)に台湾から神戸にやってきたことから始まる。当初は「髙砂製帽商行」の名称で、パナマ帽など帽子の貿易を手がけていた。
当時の男性の正装として帽子は必需品だったため世界的に大流行していた。終戦後は神戸で製造する工場も持ち、輸出するだけでなく国内販売も行った。そんな当時の製帽機具が高砂ビルの一室に展示されている。
帽子の製造販売で大成功を収めると、終戦後すぐの復興期に現在の高砂ビルを建設して、倉庫業に乗り出した。高砂ビルは頑丈な造りで窓も小さい。もともと倉庫として建てられたためだ。終戦後、貿易によって大量の物資が動いた時代、港に近い倉庫は必要不可欠だった。高砂ビルにも「トラックが頻繁に出入りし、荷物の積み降ろしで活気づいていた」と李さんは懐かしむ。
だが時代は変わる。神戸の街の中心にオフィスが不足するようになると、周囲の様子はオフィスビルへと姿を変えていった。髙砂商行も西宮市の倉庫団地に倉庫を移転、高砂ビルでの倉庫業務を取りやめた。1972年(昭和47年)のことだ。
ビルをどうするか。当時会長だった創業者の李義招氏が新たなアイデアを思いつく。天井の高さが3・5㍍から4㍍もあり、通常よりもかなり高い。その特徴を生かして今でいう「ロフト付き」の事務所として貸し出したのだ。
これを機に髙砂商行は不動産賃貸業を開始する。以来、「高砂ビル」は賃貸オフィスとして長く利用されてきた。最近では、「旧居留地」がショッピングや観光のスポットへと変わってきており、テナントも事務所だけでなく、さまざまな「ショップ」へと変化している。部屋の扉をガラス張りにして内装もリフォームすることで現代風の雰囲気を出しているトレーニングジムまである。
倉庫として重い荷物を保管するため、床は厚く、天井も高い。そんな特殊な造りが、実は、今の高砂ビルが「街の憩いの場」としての新しい役割を担うのに、役立っている。李さんの子息の祥太さんが勤めていた商社を辞め、将来、常務音楽ディレクターとして髙砂商行を継ぐことになるのを見越して、ビルの2階に「100BANホール」という音楽スタジオを作ったのだ。
祥太さんが好きな音楽の勉強のために米国に留学していたことが高砂ビルの用途をガラリと変えることにつながった。厚みのある床や壁が音漏れを小さくするため、大きな音での演奏が可能なことが、音楽ホールやスタジオとしてぴったりだったのだ。