2022年7月2日(土)

新しい原点回帰

2022年6月12日

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磯山友幸 (いそやま・ともゆき)

ジャーナリスト

千葉商科大学教授(4月から)。1987年日本経済新聞社に入社。フランクフルト支局長、「日経ビジネス」副編集長などを務め、11年に独立。著書に『2022年、働き方はこうなる』(PHPビジネス新書)など。

廣田達朗
廣田硝子代表取締役社長
1972年東京都生まれ。大学卒業後、千葉県成田市内の酒類企業で働く。成田空港に品物を納めることが多く、世界中の酒瓶に触れることができたことが良い経験になっているという。その後、家業に戻り2007年に社長就任。

 「実は、日本のガラス食器の歴史は短く、残念ながら、食器の主役にはなれないのです」

 そう語るのは1899年(明治32年)創業のガラス食器の老舗、廣田硝子の4代目の社長である廣田達朗さん。「日本では、陶器や漆器が盛んに作られ、全国に産地も多い。そんな中で、ガラス食器は洋食と共に舶来品として入ってきて、まだまだその印象が強い。国内でのガラス製造は江戸後期にまでさかのぼりますが、残念ながら日本にガラス食器の一大産地というのも育ちませんでした」という。

廣田硝子 年表

 西洋ではガラス器は紀元前から使われ、奈良・東大寺の正倉院の御物にも受け継がれている。だが、それはあくまで貴重な「舶来品」であり、日本の人々の生活に溶け込んだわけではなかった。日本人の生活にガラスが本格的に入ってきたのは明治期の石油ランプがきっかけ。明かりの主役がランプになると、ガラス製のホヤ(火屋)が必需品になった。それをきっかけにガラス製造が国内に広がる。

 「廣田硝子の初代もホヤ製造からスタートしていますが、ランプの時代は長くは続かず、ランプから電灯に代わると、ガラス食器の製造に切り替えたようです」と廣田さん。明治後期から大正にかけて、西洋文化が一気に広がり、ワインやビールが日本の食卓にも上るようになった。それでようやくガラス食器が生活に入り込んだ。

 強いて言えば、日本のガラス製造のメッカは東京だった。明治政府が官営のガラス工場を品川に建て、ガラス製造を奨励したことで、東京の下町には小規模なガラス工場がたくさんできた。今もJR錦糸町駅にほど近い場所に本社を構える廣田硝子もその一つだったのである。

戦後直後の廣田硝子
現在も錦糸町の同じ場所に本社を構える

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