エビデンスの捉え方、リスクの表し方
以上が比較的コンセンサスが得られている内容であるが、細かいところでは続々と発表される新しい臨床研究のエビデンスによって治療方針を見直す場面も多い。
冒頭のT.S.さんのやり取りは、彼が臨床研究のエビデンスを知りたいということで、抗血小板薬としてアスピリンに加えてクロピドグレルを併用した場合(dual antiplatelet therapy; DAPT)とアスピリン単独の場合とで有益性と害を比較する複数の臨床研究をまとめて系統的に吟味した2017年発表のコクラン・レビューの論文に書かれていた研究結果の一部についてである。
「確かにそれが相対リスクの限界ですね。そこで、絶対リスクの比ではなくて差(有益な場合は絶対リスク減少と呼びます)を求めて、その逆数を治療の有効性を示す尺度として使います。治療必要数(number needed to treat; NNT)なんて呼んでいます。ある定義された母集団において、一人の有益アウトカムを得るために、必要とされる平均人数です。この研究ではこのNNTは77になるので、この集団で心筋梗塞になる人を一人減らすには77人にDAPTをする必要があるということです」
「なるほど、NNTだと少し身近に感じられますね」
「同様にして、害がある場合には絶対リスク増加の逆数を治療の危険性を示す尺度として使います。これが害必要数(number needed to harm;NNH)です。何人の患者にその治療をすると一人の有害事象が出るかです」
「それで結果はどうだったんですか。気になりますね・・・」
「DAPTによる有益性としては脳梗塞についても調べていて、NNTは43でした。害としては、大出血のNNHが111、小出血のNNHが30でした。心血管疾患での死亡と原因を問わずすべての死亡については、どちらもDAPT投与群とアスピリン投与群とで有意な差は認められませんでした。言い方を変えると、DAPTが死亡を減らさなかったのです」
「なるほど」
「DAPTは、心筋梗塞発症後の急性期から一定期間使用されることがほとんどで、T.S.さんの現在の処方には、抗血小板薬はアスピリンだけです」
「ああ、半年ぐらいで薬が減ったのを覚えています。そういうことだったのですね。ともかく、心筋梗塞を再発しなかったことと出血が起こらなかったことに感謝ですね。でも……」
「でも?」
「臨床研究のエビデンスを教えてもらったらするべきことがもっとわかりやすくなるのかと思ったんですけど、いくら数字を知っても不確かさが解消されないというか……、かえって迷う材料が増えたというか……、そんな感想です」
「同感です。デジタルからアナログに戻ると言うか。エビデンスはあっても意思決定するのはやっぱり人間、私たちということですね。ただ、エビデンスを探さずに経験だけでやみくもに診療することと、エビデンスを知った上で(あるいは診療上の疑問に答えを出すエビデンスが見つからないと知った上で)どのオプションを選ぶかを迷うこととでは、目指すものが根本的に違うんだと考えています」
一次予防でのアスピリン:ASPREE研究
こうして私は、T.S.さんが心血管疾患の二次予防を進める際の良きパートナーとなった。T.S.さんのように臨床研究の細かいエビデンスを説明してほしいとリクエストする人はまだごく僅かであるが、健康に関する情報は万人のものである。
こうやって患者と家庭医が情報のより良い共有の仕方を模索することは、保健医療分野のDXを目指す新たな方向性の一つだろう。臨床研究のエビデンスや診療ガイドラインの推奨が絶対的なものではない、ということを実感してもらえる利点もある。