T.S.さんは、後日こんな質問もしてくれた。
「では、私の80歳の父にもアスピリンを飲んでもらうと良いのでしょうか。その場合、心血管疾患の予防についての有益性と害はどうなんでしょうか。父は心血管疾患にかかったことはありません」
高齢者でのアスピリンの心血管疾患への一次予防効果と害について、ということになる。これについては、二次予防よりもエビデンスが乏しく、若干混沌とした状態が続いていた。年齢がより重要だという人もいれば、心血管疾患のリスク要因がどれだけあるかが優先すると主張する人もいた。
だが、嬉しいことに、ここで私の友人であるタスマニアの家庭医Mark Nelson教授(以下、マーク)が登場する。
マークは、タスマニア大学のMenzies医学研究所で家庭医療学部門主任もしているアカデミック家庭医である。私たちは、コロナ禍以前にはお互いに訪問し合い、二人ともアウトドア派のため、自慢のハイキングコースを案内し合ったりしていた。アカデミック家庭医を目指す日本の若手をオンラインで指導してもらったりもしている。
そのマークらのチームが行った代表的な臨床研究が、2018年に米国の医学雑誌『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』に発表されたAspirin in Reducing Events in the Elderly、通称「ASPREE」研究三部作である。健康な高齢者への(つまり一次予防としての)低用量(一日100ミリグラム)アスピリン投与の効果を①障害のない生存期間、②心血管イベントと出血そして、③死亡について調べたものだ。
アスピリンのジレンマ
主な結果をごくごく簡単に言うと、健康な高齢者への低用量アスピリンの投与は、障害のない生存期間を延ばさず、心血管疾患のリスクを減らさず、大出血のリスクを増やし、アスピリン投与群で死亡、特にがんによる死亡が増加したのだ。約5年間のフォローアップでの結果である。
この研究で特筆すべきことは、この研究が大病院の特別な専門外来で行われた研究ではなく、豪州16カ所、米国34カ所、合計50カ所の家庭医診療所がネットワークを作り、地域に住む高齢者が参加して、プライマリ・ヘルス・ケアの研究として行われたことだ。
ガイドライン作成で有名な米国予防医療専門委員会(USPSTF)が、心血管疾患の一次予防のための低用量アスピリンについて16年に発表した推奨内容を22年4月に大幅に改定したことでも、ASPREE研究のインパクトの大きさがうかがえる。
こうした経緯で改めて明らかになったことはアスピリンが両刃の剣だと言うことで、これは「アスピリンのジレンマ」とも呼ばれている。
その日の診察の終わりに私たちはこんな会話をした。
「T.S.さんはどんな時にジレンマを感じますか」
「コロナ禍での感染予防と経済の両立ですかね」
「さすが経済学者ですね。ところで、ヤマアラシのジレンマって聞いたことありますか」
「えっ、何ですかそれ」
「寒空の下、ヤマアラシの群れがいました。寒いので体を寄せ合って暖をとりたいけど、互いにくっつこうとすると相手の体のトゲが刺さって痛いんですよ。だから離れる。でも離れていると寒いのでまた近づこうとする。これを繰り返して、ある程度の距離で我慢するしかないんです。これがヤマアラシのジレンマです」
「ははは、先生って見かけによらず面白いこと言うんですね」
「ありがとうございます。でも、これって確かショーペンハウエルの哲学らしいです。コロナ禍でソーシャルディスタンスが大事だとわかっているけれど、やっぱり一緒に集まって語りたい、飲食を共にしたいという私たち人間のジレンマに通じますね。悩ましいです」