アパルトヘイトの撤廃に尽力
英国憲法が定めている「元首は君臨すれども統治せず」つまり政治的な領域に入ることを禁じた原則に対して、エリザベス女王がその禁を破った瞬間があった、とする研究者がいる。
アンナ・ホワイトロック教授(ロンドン大学シティー校、王室史)である。
「アパルトヘイト政策(白人と黒人を分離する)」に対する、黒人の抵抗運動によって混乱を極めていた、南アフリカ問題である。
エリザベス女王は、「アパルトヘイト政策」に反対していた。これに対して、首相のサッチャーは、南アフリカからダイヤモンドや金などの輸入によって、巨額の貿易黒字をあげていることから、南アフリカの白人政権に対して理解を示していた。
アイルランドの公文書館で1987年に公開された、駐アイルランド大使の秘密文書である。
「サッチャーの南アフリカに対する対応に女王は激怒している。1世紀以上続いている首相との定例会議を中止したいと考えるほどだ」と。
女王の秘書官のロビン・バトラーも証言する。
「(サッチャーとの週に1回の会談後)女王は気が立っていることがありました。会談後にウィスキーを一気に飲んでいました」
エリザベス女王は思い切った手に出る。1986年、旧植民地だった諸国との首脳会談後の晩餐会でのことだ。女王は、ドレスコートをフォーマルからビジネスとしたうえに、首脳たちが家族を同伴することを禁じた。
晩餐会に出席した、当時のカナダの首相であるブライアン・マルルーニは次のようにインタビューに答えている。「女王ニュアンスや身振りでその場の話し合いをリードされていました。そして、人権を第1に考えるよう促したのです」
先の王室研究者である、アンナ・ホワイトロック教授は「(英国の元首が)政治的空間に足を踏み入れた。現代史において、あとにも先にもこの時だけなのです」と。
マンデラとの貴重な映像
南アフリカの大統領の座にのちに就く、政治犯だったネルソン・マンデラは1990年に釈放された。その後、「アパルトヘイト政策」も撤廃された。
マンデラと女王が1991年、ジンバブエの晩餐会で初めて会ったシーンは、貴重な記録である。そして、ふたりが友情に結ばれて、マンデラが逆に女王を救う伏線となる。
マンデラ「女王陛下、多忙なスケジュールなのにお元気そうですね」
女王「明日は16人に会うので疲れてしまうかも」「アフリカ訪問をしたことがありますか、と聞かれた」「お言葉ですが、私は誰よりもアフリカの国々をめぐっています。よく知っているのよ、といっておきました」
マンデラが女王を助けたのは、北アイルランド問題である。英国は12世紀以来、アイルランドを支配し、アイルランド語を禁止したこともあった。1921年、アイルランドの一部に北アイルランドを設立した。これに対して、武装勢力のアイルランド共和軍(IRA)が激しく英国に抵抗した。双方の犠牲者は約3000人以上にのぼっていた。女王の夫君のおじ一家も爆死させられた。