こうした考えの根にあるのは、1991年12月のソ連崩壊がまだ終わっていないという見方だ。ソ連という社会主義国家体制は現在も崩壊途上にあり、ロシアもウクライナも歴史上一度も近代国家になり切らないまま現在に至っている。そんな前近代の地ではどんなことでも起こり得ると言うのだ。「崩壊により国内や周辺国で戦争、内乱が起き、膨大な数の人が死ぬことになる。ロシア人は本能的にそれがわかっている」
絶望的な見方だ。筆者のように91年に1カ月ほどカムチャツカ半島に行っただけの部外者には、この是非を判断しようがない。ウクライナ侵攻も、核をもつ大国のおかしな独裁者が弱小国をいじめているだけじゃないかと短絡しがちだが、いくら情報、知識を集めても、その地を知らない者には真相は見えてこない。
旧ソ連、ロシアを知るには今という点だけを見てもわからない。歴史という線でみる必要がある。そこで見たのが、英国のアダム・カーティス監督によるBBCドキュメンタリー、「ロシア1985–1999 トラウマゾーン」だ。
まざまざと見せるロシア民の実際
BBCのモスクワ特派員が撮った膨大な未公開映像を時系列に編集した、計7部、7時間におよぶ作品にはナレーションも音楽もない。つまり見る者を下手に誘導しない。カーティス監督は英ガーディアン紙の取材に、従来の手法を使わなかったのは、「あまりに強烈な映像に無意味に介入せず、見る人にただ出来事を体験してほしかったからだ」と語っている。
映像は2022年8月に死去したゴルバチョフ大統領(当時、以下同)による社会主義体制のペレストロイカ(立て直し)の無力さから始まる。1991年夏のヤナーエフ副大統領らによるクーデターを機に崩れていくソ連の体制、エリツィン大統領による市場経済の急激な導入でオリガルヒと呼ばれた新興財閥、マフィアが台頭する。国の富を懐に入れ外に流し、国内産業を切り崩した魑魅魍魎に押されるように現れたプーチン大統領の登場で幕を閉じる。
だが、これはあくまでも政治の流れであり、映像の妙味は特派員の目で民を間近に捉えているところだ。
宇宙船ミールの乗組員からチェチェンのゲリラ兵、息子を軍から逃亡させる母、物乞いをする少女まで。テレビ中継中に記者を殴打する成り金政治家から、機動隊に素手で立ち向かう中年男、英首相への贈呈を必死に拒むトルクメニスタンの名馬、ロールスロイスのショールームをのぞく男、高級ファッション誌ヴォーグのきらびやかな編集長、売血で飢えをしのぐ人々まで、崩れゆくソ連の構成員をつぶさに、執拗に映している。